発酵人

時代小説家、江戸料理文化研究所 代表
車浮代さんが今こそすすめたい
江戸の食養生

2024/03/21

時代小説家、江戸料理文化研究所 代表車浮代さんが今こそすすめたい江戸の食養生
時代小説家、江戸料理文化研究所 代表車浮代さんが今こそすすめたい江戸の食養生

江戸時代を舞台とした小説や、江戸に関する研究書・エッセイを数多く執筆。江戸文化についての講演や監修なども行う車浮代さん。『江戸っ子の食養生』や『発酵食品でつくるシンプル養生レシピ』などの著書も多数あり、江戸の食についても造詣が深い浮代さんに、江戸時代の人々の食文化や発酵食品と付き合い方などお話しいただきました。

江戸料理を生み出した
醤油、味噌、酢などの発酵調味料

マンションの一室。「どうぞ」と車浮代さんが扉を開けると、江戸時代にタイムスリップしたかのような台所が広がっていました。浮代さんがつくったばかりの江戸をテーマにしたキッチンスタジオ。今後、江戸料理のワークショップや動画撮影などに使用する予定だと言います。江戸時代をテーマとした作品を執筆しながら、さらに江戸の食文化を広める活動をスタートする浮代さん。江戸愛に溢れていますが、実は生まれも育ちも大阪だと言います。大阪の印刷会社でアートディレクターをしていた浮代さんが、どのように江戸文化に惹かれていったのか。まずは江戸文化との出会いからお話しいただきました。

「私が江戸文化にハマったきっかけは、浮世絵でした。当時勤めていた印刷会社で、某百貨店の印刷物全般を担当していたのですが、ある時、この百貨店内の美術館で浮世絵の展覧会があったんです。東京から摺り師を呼んで実演なども行う大規模なものでした。このとき、江戸時代の浮世絵は版元が企画し、絵師や摺り師に依頼し、最後に製本されて発売されることを知りました。現代の印刷物と同じような流れが既にできていたことに驚き、また当時の自分の仕事と通じるものを感じて、どんどん江戸時代の文化に興味を持つようになったんです」

以来、数多くの浮世絵を見るうちに、その美しさや技の素晴らしさなどに惹かれるように。さらに、好きな絵師や作品ができるようになると、浮世絵はもちろん、江戸文化そのものにも関心を持つようになったそうです。

浮代さんの江戸への関心は広がっていき、なかでも江戸料理について造詣を深めていきました。

「江戸料理とは、旬の食材をあまり手をかけずに料理することと教えていただいたことがありました。そのとき、なるほどなぁと思ったんです。冷蔵庫のない時代ですから、基本的には採れたばかりのものを買って、その日のうちに消費するというのが基本。そこに、干したり、発酵させたりする保存方法が加わっていきます。江戸時代に発達した、調味料なども大きな役割を果たしていきました」

日本の発酵調味料というと、醤油、味噌、酢などが浮かびます。また、出汁や酒、みりんなどもすでに江戸時代の料理に欠かせない調味料だったそうです。

「日本は、これだけ高温多湿な国であるにもかかわらず、生のものを食すのが好きな国民です。日本の調味料は、素材の味を引き出す調味料が多いと感じます。醤油や酢、出汁、お酒などは、もともとの味わいが増すようにつくられていると思うんです。清潔さ、衛生などに大変気を配ったのはもちろんですが、生で食べることに重きを置いてきたことから、こうした日本の調味料が生かされてきたのではないでしょうか」

車浮代さんは、江戸の食文化にまつわる著書を数多く執筆している

濃口醤油が庶民に普及
日本のおかずのルーツは
江戸時代にあり

しかし、約260年間続いた江戸時代において、濃口醤油が庶民の口に入るようになったのは、江戸中期になってからと、浮代さん。江戸時代初期は、淡口醤油が関西方面から運ばれてきましたが、輸送にコストがかかり、庶民には手が届かないものでした。そのため当時の江戸っ子の味付けの基本は、塩と味噌で塩辛く。または、家庭ごとに梅干しと鰹節、お酒を煮詰めてつくる煎酒(いりざけ)が普段使いされていました。やがて、和歌山県の醤油職人が現在の千葉県 銚子に移り住み、醤油をつくるように。江戸には力仕事に従事する人も多かったことから、関西の醤油よりもさらに濃い、濃口醤油が好まれ、一気に濃口醤油が広まっていったそうです。

「京阪と水質が違ったこともあり、江戸では昆布よりも鰹節で煮出す出汁文化が発達していました。こうした鰹節出汁とも相性がよかったのが濃口醤油でした。今、私たちが“おかず”といって頭に浮かぶ、きんぴらごぼうや煮しめ、おからといったものは、この濃口醤油の普及により“江戸料理”として庶民の味になっていきました。

また、それまでの戦ばかりの時代から、食べることを楽しめるようになったのが江戸時代。屋台が立ち並び、料理屋ができ、外食文化が生まれていきます。さらに照明用の油が安価になったことから、夜更かしができるようになり、1日2食から3食になった時代でもありました。そうした背景から、蕎麦、うなぎ、寿司、天ぷらなどを楽しむ人々の姿が見られるようになったのです」。

このように生まれたおかずや料理は、その後、日本全国へと広がり、すっかり私たちの暮らしに身近なものとなりました。その結果、“江戸料理”という言葉は使われることがなくなり、今日ではまり聞くことがなくなっていったそうです。

江戸の町に
納豆売りの来ぬ日はなし
味噌汁に納豆を入れた
納豆汁が定番

江戸時代の料理は、“養生食”だと浮代さんは言います。その理由について教えていただくと、そこから江戸の人々の暮らしが見えてきました。

「江戸時代は、油が高いのと火事が怖いのであまり油を使わないですし、砂糖も庶民にとっては高価な調味料でしたから、それほど使いません。また獣肉は食べられなかったため、基本的に魚介類か鳥類をシンプルな調理で食べていました。つまりメタボリックにつながる材料は省かれていたんです。また、先ほどもお話したように、醤油、酢、味噌といった発酵調味料を使っていたということがあります。さらに、干したり、発酵させたりしてつくる保存食は、そのままよりも栄養価がアップするものがほとんどです。江戸の人々は、そうした料理をそれほど意識せずとも口にし、自然と免疫力を上げ、養生につなげていました」

毎日、新鮮な野菜や魚が手に入ったことも、江戸時代の料理が養生食だといえるゆえんです。

「天秤棒をかついで魚や青物を売る棒手振(ぼてふり)と呼ばれる人が毎日やってくるんです。特に“江戸にカラスの鳴かぬ日あれど、納豆売りの来ぬ日はなし”と言われたぐらい、納豆は朝必ず売りに来る食材のひとつでした。天秤棒で担がれた片方の桶には粒納豆が、もう片方の桶にはたたき納豆(今のひきわり納豆)が入っていました。粒納豆はそのまま食す用、たたき納豆はお味噌汁用です。棒手振は薬味箱にネギの刻んだものなど薬味も一緒に持っていたので、人々は毎朝支度をしながら納豆売りが売りに来るのを待ち、買ったばかりの納豆を朝餉の膳に並べていました」

味噌汁にたたき納豆を加えた納豆汁は、江戸時代、定番の朝食メニュー。
おいしく簡単なため、ぜひ試してほしいです

私たちにとっても馴染み深い朝食に納豆を食べる文化は、すでにこの頃から始まっていたのです。ちなみに、朝に納豆売りが来ていたのは、おそらく江戸の町だけではないかと浮代さん。京阪では、ひき粘るタイプの納豆ではなく、塩辛納豆(大徳寺納豆)を食していました。今でも西日本よりも東日本の人のほうが納豆を好んで食べる傾向にあるのは、こうした歴史に由来しています。

徳川家康が推進した
江戸の郷土味噌
「江戸甘味噌」

ごく自然に食養生をしていた江戸の人たちですが、味噌がヘルシーフードであることは、当時もよく知られていたそうです。

「『味噌汁一杯三里の力』『味噌は医者いらず』といったことわざが残っています。また、江戸前期の医師 人見必大(ひとみひつだい)が記した『本朝食鑑』という食物に関する書籍の味噌の項目には、“大豆の甘さや温かさは気を穏やかにして腹の中を広げ、血行を良くしてさまざまな毒を外に出す”といった記述が残されています。ほかにも味噌が健康に与える影響について書かれた文章がいろいろと残っていますから、一汁一菜、ごはんと味噌汁は、健康的な食事であることを、江戸時代の人も十分理解していたと思います」。

味噌というと、土地によって異なる味わいがありますが、江戸の人々はどのような味噌をつかった味噌汁を飲んでいたのでしょうか。

「味噌は、手前味噌などといって家庭でつくるものでした。しかし、徳川家康が天下統一の中心に据えた江戸の土地は沼地が多かったため、男たちは土地を整備する公共事業に駆り出されて余裕がなく、女手も足りていませんでした。そのため、信州などから味噌を買っていたと言われています。しかし、家康が味噌を買うなんてもったいない、江戸でも味噌をつくるよう促したんですね。その際、家康は、糀をたくさん使ってできるだけ早く発酵させること、京都の白味噌の甘さと三河の赤味噌の両方をミックスしたような味にすることをリクエストしたそうです。そうして生まれたのが、田楽味噌のような甘みを持った江戸甘味噌でした。力仕事の多かった江戸の人々には、この甘辛い甘味噌が受け入れられ、江戸の郷土味噌になりました」

一口食べると、甘辛い味わいが広がる江戸甘味噌。
味噌汁はもちろん、もろみ味噌のようにきゅうりなどにつけて食べるのもおいしい。

昭和の戦時中、贅沢品だからと製造を止められたこともあり、江戸甘味噌をつくる味噌蔵は減りましたが、戦後復活を望む声から再びつくられるようになり、今でも江戸の味が受け継がれています。

江戸のベストセラー
『豆腐百珍』等からレシピ選出
『江戸の料理本に学ぶ 
発酵食品でつくる
シンプル養生レシピ』

江戸文化に発祥、進化・流行し、その後私たちの暮らしに定着していったものは、ほかにも数多くあります。「料理本」も江戸時代に庶民の間に流行したもののひとつだそうです。

「それまではプロの料理家向けだった料理本が、一般の人にも読まれるようになったのが江戸時代です。最初の料理本は1643年発行の『料理物語』でした。以降230冊以上の料理本が出版されています。なかでも料理本人気のきっかけとなったのが、1782年に大阪で刊行された『豆腐百珍』です。『豆腐百珍』には100品の豆腐料理のレシピや評価などが掲載されており、読み物としても楽しめるものでした。その後、江戸でも出版され、大ベストセラーに。翌年『豆腐百珍 続篇』が発売された後は、大根や卵など、さまざまな食材に関するレシピを100品集めた百珍ブームが起こり、多くの人に読まれたそうです。きっと、こうした料理本をもとに料理をつくった女性たちが、同じ長屋のおばあちゃんや若い衆などに、おすそわけしたんだろうと想像すると楽しいですね」

浮代さんの著書には、こうした江戸時代の料理レシピを集めた『江戸の料理本に学ぶ 発酵食品でつくるシンプル養生レシピ』があります。今に通じる発酵食品を用いた料理が紹介されており、そのどれもが簡単かつおいしいものばかりです。

「私は、日々、この本のなかからいろいろなお料理をつくっていますが、なかでもよくつくるのは、『豆腐百珍 続篇』に掲載されていた『芝蘭(しらん)豆腐』ですね。練白ごまと白味噌を用いた豆腐料理でとてもおいしいです。また、『たまごふわふわ』も人気があります。徳川家の饗応料理であり、新選組 近藤勇の好物だったと言われています」。

江戸時代の食文化から
私たちが学ぶこととは

江戸の人々に愛された発酵食品レシピが、今なお私たちの食卓を彩る。そのことに食の奥深さを感じたり、少し不思議な感慨を覚えたりしますが、実は今こそ江戸料理、江戸の食文化から学ぶべきことがたくさんあると浮代さんは言います。

「シンプルで栄養価の高い養生食というのはもちろんですが、実はフードロスなどの観点でも真似したいところがたくさんあります。例えば、江戸の人々は食材のどんなところも捨てることはほとんどありませんでした。魚を一匹買ってきたら、最初は生食でいただき、食べきれなかったら、醤油漬けや味噌漬けにして、保存しながらおいしく食べきっていました」

米の研ぎ汁なども、そのまま捨てたりせず、活用していたそうです。

「まだ米の精米技術が未熟だったこともあり、米の研ぎ汁は大変濃いものでした。それらに天然塩を加え、野菜を漬けると乳酸発酵し、浅漬けができます。手間はかからず野菜が長持ちし、節約になり、生ゴミが減り、腸活につながる。良いところばかりです。私も日々つくっていますし、ワークショップなどでも多くの人に喜んでいただける調理法です。

現代はコンビニに行けば、既に調理された料理が簡単に手に入ります。冷凍食品もおいしくなっています。でも、シンプルな調理で、栄養価が高く養生食になって、おいしく、環境にもいい、江戸の食文化やレシピには、今の私たちが取り入れたい優れた点がたくさんあります。ぜひ多くの人に、江戸時代の食に目を向けてもらいたいですね」。

「2洗目、3洗目の濃い米のとぎ汁200mlに対して、天然塩を小さじ1の割合で溶かした漬け汁に、
カットした野菜を漬けて密封し、冷蔵庫で保存するだけ(きのこやブロッコリーは漬け汁で茹でて冷ましてから
冷蔵庫へ)。2週間ほどかけて徐々に乳酸発酵するのでいつでも食べられる。」

車 浮代(くるま うきよ)さん

江戸料理文化研究所 代表・時代小説家

車 浮代(くるま うきよ)さん

江戸料理文化研究所 代表・時代小説家

車 浮代(くるま うきよ)さん

大阪生まれ。江戸文化、特に浮世絵と江戸料理に造詣が深い。
大阪芸術大学デザイン学科卒業。
映画監督・新藤兼人氏に師事し、シナリオを学ぶ。
現在は作家の柘いつか氏に師事。
『第18回シナリオ作家協会 大伴昌司賞大賞受賞』

2024年3月15日に江戸風キッチンスタジオ『うきよの台所ーUkiyo’s Kitchenー』を埼玉大学の近くにオープン。
近著に、『気散じ北斎』(実業之日本社)『蔦重の教え』(双葉文庫)『天涯の海 酢屋三代の物語』(潮文庫)『発酵食品でつくるシンプル養生レシピ』(東京書籍)などがある。
http://kurumaukiyo.com

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