内藤とうがらし再興プロジェクト

第一回 内藤とうがらし はじまりの物語。

2012/12/20

「内藤とうがらし」という野菜を聞いたことがある人はどのくらいいるだろうか。現在、私たちが口にするとうがらしのほとんどは「鷹の爪」という種類で、ピリリと辛みが強い。一方、この「内藤とうがらし」は、「八ツ房」という種類に属す、辛みの中に甘さを感じる中辛の風味が特徴だ。その昔、江戸の町では主流のとうがらしだったという。

今ではほとんど知られなくなってしまった江戸野菜「内藤とうがらし」を戸塚地域(現 高田馬場・早稲田・落合)で復活させようという動きがある。それが「アトム通貨内藤とうがらし再興プロジェクト」だ。まずはこの活動の大本である「内藤とうがらしプロジェクト」の発起人である成田重行さんにお話を聞いた。

江戸時代「もっと野菜を食べよう」運動から
江戸野菜は生まれた。

江戸野菜「内藤とうがらし」とはどのような野菜ですか?

「内藤とうがらし」は、江戸時代、信濃高遠に城を持つ内藤清枚という大名が、内藤家に受け継がれていた江戸の土地、今の新宿御苑に下屋敷と呼ばれる畑を持っていたことに由来します。

江戸時代も中期になると、江戸周辺地域で水田がたくさんつくられるようになり、江戸の庶民も三食白米が食べられるようになりました。すると過食となった人たちが「かっけ」など「江戸わずらい」と呼ばれる病気にかかるようになったのです。そこで「もっと野菜を食べよう」と幕府が奨励したことから、大名がこぞって、郷里から野菜の種や農民を江戸につれてきて、さまざまな野菜をつくり始めました。それが「江戸野菜」のはじまりです。今に残る「練馬大根」「亀戸大根」「小松菜」などはその代表格ではないでしょうか。

「内藤とうがらし」もその江戸野菜のひとつですか?

はい。当時、新宿御苑の辺りは宿場町として多くの旅人が立ち寄る場所でした。ちょうど時を同じくして「蕎麦文化」が発展したことにより、たくさんの蕎麦屋が軒を連ねることになりました。その数約4000軒と言われています。そうした背景もあり、先の内藤清枚が新宿の近郊の農家へと手渡した「内藤とうがらし」は、薬味として大変重宝され、瞬く間に普及したのです。新宿御苑から、今の伊勢丹があるあたり、そして大久保、高田馬場・早稲田(旧戸塚町)へと畑はどんどん広がり、辺り一面が真っ赤になったと言われているほどです。

江戸時代から今も続く、七味唐辛子で有名な浅草「やげん堀」の売り口上に、「江戸内藤新宿は八ツ房の焼き唐辛子」という言葉が入っていることからも、その人気がうかがえます。

成田 重行(なりた しげゆき)氏
プロフィール

1970年2月立石電機株式会社(現オムロン株式会社)入社。
1991年同社常務取締役に就任。2001年7月株式会社 ナル コーポレーション代表取締役社長就任(現在)。地域開発プロデューサーとして、全国30の市町村における地域振興創造を手がけ、地域の活性化支援を行っている。
多摩大学市民大学講師(1995年-96年)/立教大学講師(1997年)/東北福祉大学特任教授(2006年~2011年)/スローフードジャパン副会長(2005年~2009年)/スローフード江戸東京リーダー(2004年~2012年)/現在、内藤とうがらしプロジェクトリーダー、中国国際茶文化研究会名誉理事、浙江省樹人大学客座教授をつとめる。