日本の伝統 保存食を極める
日本の伝統 保存食を極める
第二回 佃煮 -東京都 日本橋鮒佐-
2013/01/21
日本の伝統 保存食を極める
第二回 佃煮 -東京都 日本橋鮒佐-
日本の伝統 保存食を極める
2013/01/21
季節を問わずに野菜や果物、魚介類が手に入るようになったのは、つい最近のこと。冷凍や輸送の技術が発達するまでは、その時期に手に入るものを食するしかなかった。
いつでも生鮮食料品が手に入る温暖な地域だったら旬のものだけで十分だけど、世界には気候や風土の関係で長い期間食料の確保が難しくなる土地もたくさんある。そこで発達したのが保存食。生鮮食料品を、発酵、乾燥、燻製などの技術で加工して備える。世界各国では今なお多くの保存食が工夫され、作られている。
食文化の土台を支える生活の知恵、保存食を極める旅。第二回目は、江戸時代に登場した「佃煮」です。
小さい魚や貝類を甘辛く煮付けた佃煮。由来については諸説あるけれど、ネーミングから「佃島(東京都中央区)」にその源があるのは間違いなさそう。
今から約四百年前に隅田川河口の干潟が埋め立てられてできたのが佃島。この地には徳川家康の命によって摂津国佃村(大阪市西淀川区)から腕の立つ漁師が数十人移住してきたが、この漁師たちが不漁時や船内食のために作っていたのが小魚や貝類を塩煮した保存食、元祖佃煮だった。その後、元祖佃煮は江戸から全国に広まっていったのだが、そもそもどうして家康は佃村の漁師を呼び寄せたのか?
答えは、明智光秀の謀反によって織田信長が討たれた本能寺の変(1582年6月)にさかのぼる。信長の盟友である家康は、このとき大阪にいて窮地に立たされていた。そこで脱出を助けたのが佃村の庄屋で、元祖佃煮も道中の兵糧として持たされたという(参考/日本食品新聞社・武田平八郎)。
家康が漁師たちを大阪から呼び寄せたのは、恩返しのためだったのか。もしかしたら、佃煮がよっぽどおいしかったのかもしれない。
日本橋鮒佐(ふなさ)の創業は江戸時代末期の1862年。当時、小鮒の串焼きで商いをしていた初代佐吉が釣りの途中に佃島に漂着。そこで雑魚を塩煮する技法を知り、帰宅後に小魚の醤油煮を考案、市中で売り出したところ大人気になったという。つまり、現代の醤油で煮込む佃煮の原型が、ここ鮒佐さんで生まれたわけ。
日持ちして、簡単に持ち運びができて、ご飯のおかずとしても最適な味。佃煮は明治時代には軍用食として流通し、戦後は庶民の日常食として定着した。
創業から150年を経た現代では、五代目宮内悠さん(1975年生まれ)が現場を仕切っている。