私らしく、美しく(医食同源)。
行事食から見つめる日本の食文化
2013/11/07
行事食から見つめる日本の食文化
私らしく、美しく(医食同源)。
2013/11/07
編集担当ノブエとミヨコが、「食」「習慣」「日本」「伝統的な暮らし」などをテーマに、専門家を訪ねます。
ミヨコ:郷土料理っていうとどういう料理を思い浮かべる?
ノブエ:うーん。栃木の宇都宮ぎょうざとか、静岡の静岡おでんとか、かな?
ミヨコ:そうね、ご当地グルメとか、B級グルメなど、その土地ならではの料理はよく話題になっているし、馴染みがあるよね。でも今日はそういうジャンルとは少し違う角度から郷土料理を研究している清 絢(きよし あや)さんを訪ねようと思うの。
ノブエ:楽しみ!どういうお話が聞けるんだろう。
ミヨコ・ノブエ:さっそくですが、まずは清さんの活動内容から教えていただけますか。
清絢さん(以下清さん):私は郷土料理、なかでも行事食の調査・研究をしています。年中行事や冠婚葬祭をはじめとした、人が集まる時にいただく料理ですね。とくに最近では、富山県、石川県、福井県、岐阜県など中部山村地域のお寺などでの行事食を重点的に調べています。
ノブエ:お寺ですか?
清さん:はい。郷土料理というと、観光化された名物料理もありますが、私は料理そのものだけでなく、背景や歴史、暮らしとのつながりなども含めて興味があります。お店で出されるものではなく、自分たちで食べるための料理、人が寄り合っていただく「共同飲食」のための料理の中に、食の“本質”のようなものを感じるのです。
お寺でなくても、家庭に伝わる郷土料理、行事食ももちろんあります。でも家庭の場合は、続けるのもやめるのもその家庭次第。「まぁいいか」と思ってしまえば、あっという間になくなってしまうんですね。でもお寺の場合は、行事食として地域で守っている例が数多くあります。地域ごとに役割が当番となって決まっていたり、責任を持って昔からのやり方を伝えていたりするので、比較的古いものが受け継がれているのです。
ノブエ:具体的にはどのようにして、調べるのですか?
清さん:学生時代に歴史学を学んでいたこともあり、古文書などを読んで調べることもあるのですが、軸になるのは現地で聞き取りなどを行うフィールドワークです。可能であれば、2週間ほどお寺に住み込みをして、お掃除をしたり、鐘をついたり、お手伝いをしながら、日常生活をともにします。そして、行事に参加し、そこで行事食がどのようにつくられているのか、見せていただくのです。
ミヨコ:そもそもどうして郷土料理、行事食を研究しようと考えたのですか?
清さん:母も祖母も家庭科の先生ということもあってか、もともと食に興味を持っていました。また、旅行が好きで、学生時代はよく海外を旅していたのですが、そのうちに自分が日本のことを何も知らないと気がついて……。高知県に滞在した時のこと、隣の家のおじさんが撃ち獲ってきたばかりの鹿を食べさせてくれたんです。鹿肉を軽く火で炙ったタタキのようなものだったのですが、それが衝撃的に美味しかった。私は大阪で生まれ育ったので、獲ってきた鹿をいただくという経験自体にとても驚いたし、何より目の前に広がる自分の知らない日本に、好奇心を掻き立てられました。さらに実家がお寺だったため、近所の方からよく自分の家でつくったお料理をいただいていました。今思うとまさに郷土料理、行事食に触れて育ったのだと思います。
ミヨコ:調べられている郷土料理、行事食の中で、今回はどんな料理について教えていただけますか?
清さん: 岐阜県高山市に伝わる「お講汁」というお料理です。このお講汁は、「報恩講」という浄土真宗の行事がお寺で行われる際に、この地域の皆さんが召し上がっているものです。作り方が大変ユニークで、年に1回この日がくると、この地域に住む約20世帯の皆さんが、蓋付きのバケツとふろしき包みを手にお寺に集まってきます。そしてお寺のかまどに置かれた鍋の中に、バケツに入れて持参した大根とお味噌を次々と入れていくのです。お味噌の多くは自家製のものです。味噌は手前味噌というように、家庭ごとに個性があります。これらを持ち寄って、大量の大根のお味噌汁をつくるのですね。
ノブエ:おもしろいー!
清さん:食事の時間になると、お斎(おとき)といって、それらをみんなで分けていただきます。それぞれ持参したごはんとお漬け物も広げ、みんなで一緒に食事をするのです。
ノブエ:お講汁、美味しいのですか?
清さん:それがとっても美味しいんです。20通りのお味噌が混ぜ合わされた究極の合わせ味噌のお味噌汁。とてもこく深い味わいです。
このお斎、美味しい食事の時間なのですが、同時にこの地域の皆さんにとっては、何代も受け継いだ日常に根付いた行事であり、ご近所のコミュニケーションの場なんですね。ちょうど秋の稲刈りの季節の後にあるので、ちょっとした打ち上げのような意味合いもあるといいます。