発酵に恋して。
情報学研究者 ドミニク・チェン
ぬか床とコミュニケーションする?
発酵と腐敗のせめぎあいが生み出す豊かさ
2019/07/25
発酵に恋して。
2019/07/25
早稲田大学文学学術院 准教授で、情報学研究者・起業家のドミニク・チェンさん。情報学の分野で客観的な情報を扱うコンピューターの世界と、人の心理や心の動きなど主観的な情報の世界を結びつけるための研究・活動を行ってきたドミニクさんが、なぜぬか漬けや発酵に関心を持ったのか? また、ドミニクさんが考える“ぬか床マインド”についてのお話、ぬか床とコミュニケーションをとれるぬか床ロボット『NukaBot』のことなど、さまざまなお話を伺いました。
ドミニクさんがそもそもぬか漬けに興味を持ったのは10年ほど前のこと。プレゼントとしてぬか床をもらったのがきっかけだったと言います。
「新しく会社を立ち上げたのですが、創業の日『君にこれを託そう』と、共同創業者に手渡されたのが、タッパーに入った100gほどのぬか床でした。彼の家に伝わる50年物のぬか床。すごくうれしく思ったのと同時に、大きなメッセージを感じて身の引き締まる思いでもありました」
ぬか漬けは初めての経験だったドミニクさんですが、大切に持ち帰り、ぬか漬け生活をスタートさせたそうです。
「新しいことを始めるのが好きですし、創業のタイミングでいただいたもの。よしやるぞ!という気持ちでいろいろ調べて取り掛かりました。ただ、最初に用意したのが5kgほどの琺瑯容器で、とても大きかったんです。容器の底で眠る100gのぬかの上に、たくさんの新しいぬかが覆うことになってしまいました。ですから最初は新しいぬかの匂いがしていて、もしかしたらこのまま新しいぬかに取り込まれてしまうのではないかと、少し心配しました。でも、捨て漬けを始めて1週間ほど経った頃、色や香り、手触りが変化して、100gのぬかにいた微生物がうまく繁殖し、いきいきと活動しているのが実感できたんです」
以来、このぬか床に漬けたぬか漬けのおいしさにびっくりする日々。これまで食べたことのある既成品とはまったく異なる、深みのあるぬか漬けの味に魅せられたドミニクさんは、毎日会社から帰ると、ぬか漬けを取り出し、新しい野菜をぬか床に漬けるのが習慣になったそうです。
「当時は一人暮らしをしていたので、ごはんと味噌汁、ぬか漬けだけの生活。シンプルな食卓ですが大満足でした。あまりにおいしいので、友達にも食べてほしくなり、お土産に持っていくと『これはうまい!』と喜ばれましたね。きゅうりや人参など、定番の野菜も漬けますが、お気に入りは茄子。ぬか漬けにする前と後の変化がわかりやすい野菜だからかもしれません。ぬか漬けにすると食感がシャキシャキとし、滋養溢れる味になるのがとても好きなんです」
立ち上げたばかりの会社で情報システムをつくり、家に帰ってぬか床をかき回す。そんな日々を送っていたとき、ふとあることに気づきました。「インターネットとぬか床は似ているのではないか?」という考えが湧いてきたのです。
“話す”というのは立派な表現行為であり、その本質にあるのは、情報をからだの外部から受け取り、それが意識・無意識の中でうごめいて、その時々で口や手などから表現という形で外に出るということ。そうした表現行為は、ぬか床に入ってきた野菜に反応して微生物が行う栄養素の代謝行為、つまり発酵に見立てることができるとドミニクさんは考えました。
「たとえば、ツイッターでつぶやく行為は、一人ひとりがツイッターというぬか床の中で、ぷつぷつと発酵しているようなもの。場合によっては、つぶやきとつぶやきが反応しあって発酵が進み、場合によっては腐ってしまう。インターネットはぬか床同様、発酵と腐敗がせめぎ合う世界のようだと妄想したのです(笑)」
ドミニクさんは、その後も、ぬか床の不思議さ、おもしろさ、奥深さに惹かれ続け、著書の中で発酵食やぬか床の文化的・社会的な意味について語り合ったり、ラジオやトークイベントなどで、発酵について話したり、ぬか床とご自身の専門分野である情報学と重ねて語るなど、さまざまな機会を設けていきました。
そして、ある日ふと「ぬか床が自分で動き回り、発酵しやすい場所に移動したらどうだろう?」と、思いつきます。そしてこのアイデアを発酵デザイナー小倉ヒラクさんに話したことから、ぬか床ロボット『Nuka Bot』の構想が進み始めるのです。
「実は、僕には苦い経験がありました。いただいた初代ぬか床を、暑い夏の日、半日ほど屋外に置き忘れてしまい、腐らせてしまったのです。以降、何度か腐らせる経験を繰り返しながらも、ぬか床を作り続けてきましたが、最初のぬか床のあの深みのある味にまで達することができずにいました。そうした思いや経験が、無意識のうちに『もし、ぬか床自身が自分で快適な場所に動いてくれたら』という発想を生み出したのかもしれません。それが可能になれば、あの日、ぬか床を腐らせることもなかったのではないか。それどころか、まるであの50年を経たぬか床のような、またはそれ以上の、おいしいぬか漬けができるぬか床にすることができるのではないかと考えたのかもしれません」
『Nuka Bot』をどのようにつくるか考えたドミニクさんと小倉さん。おいしいぬか漬けができるぬか床とは、多様な微生物がどのように存在する状態なのか?その状態に必要な条件とは?といった調査を開始しました。発酵に関する専門知識を持つ小倉さんとともに過去の論文などを紐解くことで、ぬか床が発酵するプロセスにおける、乳酸菌などさまざまな菌や酵母などの働き、pHなどについて仮説を立てることができました。また発酵が進んだぬか床に香る「熟成香」についても調べるため、匂いに関する研究を行うソン・ヨンアさんにも仲間になってもらい、『NukaBot』の制作を進めていきました。
そして、ぬか床の成長仮説中、重要な指標となるpHなどの数値を測る機材や、匂いを発生させるガスを測る機材などをぬか床に取り付け、1分ごとに15種類の値を計測し、グラフ化。ぬか床の中で微生物たちが“生きている”ことを可視化することができるようになったのです。
次に課題となったのは、このデータを元に発酵と腐敗の判定をどう行うかということでした。
「僕も小倉さんも長年のぬか漬け歴から、発酵しているのか腐っているのかは判断できるのですが、難しいのはおいしいかどうか。おいしさの判断は主観的で、たとえば僕と7歳の娘でもずいぶんその評価が違います。そこで紆余曲折の結果、ざっくりと『おいしさ』を5段階で評価し、何を漬けたか、いつ混ぜたかなども記録するようにしました」
小倉さん、ソンさんの家にも『NukaBot』を設置し、3カ月間仮説と実測値を突き合わせて検証。発酵がうまくいっているときも腐敗したときもデータをとったことで、仮説が大きく外れてはいないこと、数値的にどうなっていると腐敗済みもしくは腐敗傾向にあるかなどを確認することができました。さらに、pHが下がってくると『おいしさ』が上がってくることなどもわかったそうです。
「ぬかの中には、あまり酸素を必要としない弱嫌気性の乳酸菌と、代謝に酸素を必要とする好気性代謝菌が存在しています。僕たちは、この好気性代謝菌をちょっと暴れん坊な“不良菌”と呼んだりしていました(笑)。ぬかをかき回すとき、空気に触れている表面のぬかが底に沈められます。このとき好気性代謝菌つまり“不良な”菌たちの生育が抑えられ、乳酸菌が活性化することが、一般に知られています。今回の実験でも、ぬかを毎日かき回すと、ぬか床のpHが下がることが数値で見て取れることから、乳酸菌を活性化させるにはかき回すことが大事であることを、味としても数値としても実感することができました」
さらに、こうした検証によって、ぬか床は大きく分けて3つのフェーズを経過して成長していると仮説を立てることができたと言います。
「最初の一週間、いわゆる捨て漬けをする時期は、野菜が腐りもしなければ発酵もしない『塩漬け期』、その後二週間ほどは、ぬか漬けと呼ぶには未熟ではあるものの微妙に発酵するピクルスに似た『ピクルス期』、そして、ぬか漬けを始めて30日くらいで、pHが下がって乳酸菌と好気性代謝菌など、その他の発酵菌の両方が活性し、ゆらぎながらバランスをとる『ぬか床期』の3つのフェーズがあると考えたのです」
まだまだわからないことは数多くあるものの、ドミニクさんらはぬか床の中の微生物の動きや発酵と腐敗についてたくさんのことを理解できたといいます。
また、ドミニクさんが「当初の発想は、ぬか床が自分で動くことから始まりましたが、実際に制作を進めると、まずはぬか床のことをよく知り、コミュニケーションがとれるようになることを優先しようと考えました」と言うように、『NukaBot』はどんどんコミュニケーションできるぬか床として進化を続けます。たとえば、音声認識スピーカーとつながり、ぬか床の数値の状況によって「かき混ぜてください」などのようないくつかの会話ができるようになりました。さらにプロダクトデザインを担当した守屋輝一さんによってデザインも一新。最初は、スマートスピーカーを思わせるデザインに。その後、温かみのある手仕事の木製容器になり、アーティストのクワクボリョウタさんとパーフェクトロンが開発した『ニコダマ』を装着。つい話しかけたくなる姿になっていきました。
「話しかけると応えてくれたり、目が動いたり、人が愛着を感じるような、生命性を放つぬか床になりました。ぬかの中にはたくさんの微生物が生きているのですが、見た目に生き物感が増しましたね。『そろそろ漬け頃だよ』と話す『NukaBot』にうちの猫がびっくりして飛び上がるのを見て、成功だなと思いました(笑)。僕自身も、『NukaBot』によって、ぬか床の状態がすぐにわかるようになったし、“育児放棄”(笑)もしにくくなりました。また、積極的にいろいろな実験をしてみたいと思うようになりました。中南米産の唐辛子を入れたらどうかとか、ルバーブの漬物はおいしいだろうか?とか。伝統だけを求めるなら、普通のぬか床でいいかもしれない。でもぬか床がメッセージを発信してくれるなら、ギリギリのところを攻めて、挑戦して、ぬか床のおいしさの可能性を広げていけたらと思うのです。
ときに『NukaBotがかき混ぜてほしい時がわかったなら、かき混ぜも自動で行えばいいのでは?』と質問をいただくことがあります。でも、私達が『NukaBot』をつくりたいと考えた原点は、ぬか床とコミュニケーションを取ることであり、能動的に関わること。かき混ぜを自動化することには意味を感じないのです」
「『NukaBot』によってもわかったように、ぬか床は発酵と腐敗の両方の状態を行ったり来たりすることで独特の風味を獲得しています。ぬか床の表面が“不良な”好気性代謝菌によって腐りかけたとしても、それらをぎゅっと中に押し込めば大丈夫なだけでなく、逆に味を深めることができる。発酵と腐敗の境目を出たり入ったりするのが、ぬか床の面白いところではないかと思うのです」
そして、そうしたぬか床の様子から人の社会をみると面白いことに気づくとドミニクさんは言います。
「たとえば、細菌学や衛生学の研究者や起業家が集まるアメリカの会合に出席したとき、語られていたのは、子どもたちが清潔になりすぎていて、そのせいで病気になりやすいのではないかということでした。もちろん、そこには複雑な要因がありますが、異口同音に語られていたのは、現代の社会は清潔にしようとしすぎているということでした。つまり、人工的に悪玉菌と言われる菌を排除することばかりしていると、逆にバランスが崩れて人の体に悪影響があるのではないかと話されていたのです」
また人の心理においても、同じような学説があると言います。
「これまでは、ポジティブな感情をなるべく増やし、ネガティブな感情はなくしていくことが、ウェルビーイング(身体的、精神的、社会的に良好な状態)のために、いいと考えられてきました。でも近年、ポジティブな感情とネガティブな感情、どちらも定期的に感じているほうが、ウェルビーイングが高まるという仮説がとなえられています。ハイテンションでポジティブな感情だけでいようとすると、どこかで精神のバランスを崩してしまうという治験が集まっているのです。これは、アメリカなどでは驚きをもって迎えられている学説の一つです。こうした話を聞くと、私はとてもぬか床っぽいと感じます。乳酸菌だけでなく、私たちが“不良”と呼ぶ好気性代謝菌も一定水準存在しないと『ぬか床期』のような状態にはなりません。良いも、悪いも、波のようにゆらぎながらバランスをとることこそ自然であり、豊かなものを生み出すということです」
だとするならば、近代医学の達した現在のレベルは、もしかしたら『ピクルス期』であり、今後大きな進化をする途上にあるのではないか考えるとドミニクさん。
さらに、そこに「主体的に関わる」ことがとても重要だと言います。
「ぬか床にせよ、自分の心にせよ、家族や友達との関係にせよ、制御=コントロールするのではなく、まるでぬか床をかき混ぜるように、主体的に関わることが重要だと思います。客観的にみると、人はぬか床の中をコントロールしているかに見えるかもしれませんが、主観的な体験としては、まるでペットに餌をあげるかのように、菌の言いなりとも言える状態です。香りや手触りを通じて菌から発せられるメッセージを感じ取り、『ちょっと待ってね』と手を入れる。これは生き物同士の関係性だと思うのです。生き物であるからこそ、自分の生活リズムと同期し、生活の一部になっているような感覚を覚えるし、自分がそこに関わることで、相手が元気になったり、元気じゃなくなったり、能動性が反映される。コントロールとは異なる能動的な関わりが、おいしさの一部を担っているとも言えます。この考え方は人間関係に置き換えることもできます。親や上司が子どもや部下をコントロールしようとしてもうまくはいきません。“ぬか床マインド”で臨むことで、うまくバランスがとれることがあるのではないでしょうか」
最後に、これからドミニクさんのぬか床研究はどのようになっていきますか?と伺うと、このように答えてくれました。
「ぬか床研究は、がんばっても1日に1つの官能評価しか返せませんから、これはもうライフワークにせざるをえませんね(笑)。また、人によっておいしさの好みはバラバラです。データをたくさん集めることで、『塩漬け期』『ピクルス期』『ぬか床期』といった3フェーズだけでなく、10くらいのフェーズに分けることができるかもしれませんね。データが集まることで、楽しみ方も増えるし、ぬか床も進化していく。そして、何年後かには、自分で移動して、玄関先までお迎えに来てくれて、『待ってたよ、早くかき混ぜてよ』と言ってくれるくらい進化しているかもしれません。人とぬか床が共進化していくのを楽しみながら、これからも研究を進めていきたいと思います」
1981年、東京生まれ。フランス国籍。早稲田大学文化構想学部・准教授。株式会社ディヴィデュアル共同創業者。NPO法人コモンスフィア/クリエイティブ・コモンズ理事。カリフォルニア大学ロサンゼルス校卒業。東京大学大学院学際情報学府博士課程修了。博士(学際情報学)。
主な著書に『電脳のレリギオ:ビッグデータ社会で心をつくる』(NTT出版)『インターネットを生命化する:プロクロニズムの思想と実践』(青土社)『作って動かすALife:実装を通した人工生命モデル理論入門』(共著・オライリージャパン)『謎床:思想が発酵する編集術』(共著・晶文社)『情報環世界:身体とAIの間であそぶガイドブック』(共著・NTT出版)などがある。また発酵に関する考察は、『ドミニク・チェンの醸され「発酵メディア」研究』