食の哲学。
がんのケトン食治療の第一人者に聞く、
日本人に適した食事の在り方
2019/10/24
食の哲学。
2019/10/24
糖質を控え、脂肪を増やす「ケトン食」。てんかん患者に対して有効であるとして、長い歴史を持つ食事療法ですが、近年はケトン食の継続によってがん患者の予後が改善する可能性が報告され、日本国内でもその臨床効果が注目を集めています。
ケトン食そのものはあくまでも食事療法であり、健康な人に推奨される食事法ではありません。しかし、その本質を突き詰めると、「日本人の体質に合った食事」のあり方が見えてきます。
日本人が健やかに生きるために必要な食事と、理想的な食事スタイルについて、2013年から国内で初めて「がんケトン食療法」の臨床研究を開始した、大阪大学医学系研究科・萩原圭祐(はぎはら けいすけ)特任教授にお話を伺いました。
がんの進行を抑制する新たな選択肢として期待されるケトン食。実は、ケトン食の治療応用には長い歴史があり、古くはヒポクラテスが報告したてんかんに対する絶食の効果に遡るといわれています。
「ヒポクラテスの報告を基に、絶食より負担が少ない食事療法として考えられたのがケトン食です。脂肪とたんぱく質を増やし、糖質を減らすケトン食は、てんかん患者の発作軽減に劇的な効果を示しました。
てんかん治療薬の進歩で一旦廃れますが、薬だけでは改善されない患者さんに有効であるとして再評価され、日本国内でも小児科の先生を中心に指導が行われています」
ケトン食のてんかん以外への治療効果が注目されるようになったのは、2010年前後のこと。2011年ドイツのグループが末期のがん患者にケトン食を試したところ、QOL(※)の改善が得られたとの臨床結果が報告され、以後、欧米ではケトン食の臨床効果の探索が行われています。
そして、がん患者さんへのケトン食の臨床研究を日本国内で初めて行ったのが、萩原教授率いる大阪大学先進融合医学共同研究講座です。
※QOL(Quolity Of Life)…人が生きる上での生活における満足度を表す指標のひとつ。
「臨床病期(※1)IV期である55名のがん患者さんが臨床研究に参加し、最終的に37名が少なくとも3ヵ月間、我々の開発したがん患者さん用のレジメに沿ってケトン食療法を行いました。
一部の患者さんは寛解(かんかい ※2)に至る人もいるなど、予想を上回る臨床効果が得られており、現場レベルでの手応えは確か。現在は、論文発表の準備を進めています。
今後は、日本人の体質に合わせて、和食をベースにした究極のケトン食メニューを考えていきたいですね」
※1 臨床病期…がんは、病気の進行によって、ⅠからⅣ期に分けられる。Ⅳ期は、がんが一番進行した状態を意味する。
※2 寛解(かんかい)…画像検査などさまざまな検査で、がん細胞が認められない状態を意味する。がんの種類にもよるが、寛解の状態が続いて5年間再発しなければ治癒したと考えられている。
萩原先生が目指す「和食ベースのケトン食メニュー」に欠かせないのが、発酵食品です。ケトン食療法では、たんぱく質の摂取量が増える一方で食物繊維が不足しがちになるため、便秘になる人が多いといいます。
そこで、発酵食品を取り入れることで腸内細菌に働きかけ、便通を整えることが期待できるのです。さらに、精神的な面でもメリットがあると萩原先生。
「例えば、お味噌汁を飲むとホッとするという人は多くいます。おそらく、子供のころからの幸せな食事の記憶が、お味噌汁の味によって呼び起されるのでしょう。
手間暇をかけて作られた物をいただくということ自体、精神的にも肉体的にも良い影響があると思いますね。最終的には、ケトン食を通じて食生活を見直し、日本人に合った本来の食習慣に戻していくことができれば理想的だと思っています」
萩原先生が考える「日本人に合った食事の在り方」は、健康な人や、健康を維持したい人にもおすすめしたいものです。
「がんの患者さんに朝ご飯のメニューを聞くと、パンと答える人が多いんです。忙しい朝、トーストするだけで手軽に食べられるパンが重宝されるのはわかりますし、食べてはいけないとは言いませんが、果たして、本来の日本人の体質に合っているといえるのでしょうか?
生まれ育った国が違えば、食べてきた物も違うわけですから、当然体質も異なります。例えば、日本人には馴染み深い食材である海苔には、ビタミンや葉酸などたくさんの栄養が含まれています。しかし、海苔を吸収できるのは、日本人の持つ特有な腸内細菌叢(ちょうないさいきんそう※)のおかげで、異なる腸内細菌叢を持つ日本人以外の人が食べても栄養として吸収されず、エネルギーにならないことがわかっています。
※腸内細菌叢(ちょうないさいきんそう)…腸内に存在している多種多様な腸内細菌の集まり。腸内フローラとも呼ばれる。
欧米で良いといわれている食材の中にも、日本人にはプラスにならない物がある可能性は高いと思います。人の体は食べた物で作られるわけですから、日本人にとっては、この国で昔から食べられてきた物、つまり従来の日本食こそが最善の食事だといえるでしょう」
萩原先生は、ケトン食の有効性を示す根拠のひとつでもあるイヌイットの食習慣の変化を例に引いて、安易な欧米型の食事への移行に警鐘を鳴らします。
「イヌイット民族は、伝統的に魚を多く食べる、たんぱく質が中心の食習慣を守っていたあいだは、がんの発生率が極めて低いことが知られていました。炭水化物が少なくて脂肪が多い、ケトン食によく似た食事ですね。
ところが、1910年以降に欧米型の食文化が流入し、1950年代からは大腸がん、肺がん、乳がん、前立腺がんなど、先進国に見られるがんが増加したのです」
とはいえ、ケトン食は健康な人が病気の予防のために行う食事法ではありません。「ケトン」という言葉から糖尿病の原因物質を連想しがちですが、ケトン体はあらゆる人の体内に存在していて、体が飢餓状態のときにエネルギー源となって働いてくれる物質です。
夜、適量の食事をしてぐっすり眠ったとき、睡眠中にケトン体が上昇するのは健康な人にとって自然なことで、一般的には特別なコントロールをする必要はないのです。また、脂肪比率を極端に高める必要があるケトン食を個人で行うのは非常に難しく、成果が出にくいことも知っておきたい事実です。
「食事療法というと、自分で簡単にできるイメージがあるせいか、どうしても自己流で誤った使われ方をしがちです。そうした自己流のケトン食をもとに効果の有無が議論されたり、手軽な健康法のようになったりするのは望ましくありません。
我々の研究では、長年経験を積んだ管理栄養士の先生のご指導のもと、ケトン食療法を行っています。
健康な人が予防の意味で食生活を見直すなら、昔ながらの日本人の食習慣を取り戻すことから始めましょう。もちろん、炭水化物も大切なエネルギー源ですから、きちんと適量をとることが大切です。
成長期なら活動量に見合った十分なご飯を食べるべきですし、中年期以降なら懐石料理の最後に出てくるご飯を目安に量を調整して、適度にとることを心掛けてほしいですね」
健やかな体を維持するには、食事の内容だけでなく、食事のとり方も重要なポイント。食材を洗って刻み、出汁をとって作る味噌汁のように、手間暇かけた料理が食卓に並ぶ家庭では、食事を媒介として家族の会話が弾みやすい傾向にあります。
「会話をしながら食事をすると、一つひとつの料理がよりおいしく感じられますし、精神的な安定も得ることができます。家族みんなで和気あいあいと食卓を囲むという食事スタイルを続けている家庭の人は、病気になりにくく、なっても治りやすいというのが私の実感ですね」
最も避けたいのが、一人で食事をとる「孤食」。特に、一人暮らしの孤食より、家族がいるのにバラバラに食事をする孤食のほうが問題は大きいと萩原先生は指摘します。
「一人暮らしの人ももちろん寂しさはあると思いますが、環境上やむを得ないことですから、どちらかというと自身でも納得しやすいのです。たまに友人と外食するのを楽しみに、毎日の食事は一人でもそれなりに充実しているという話もよく聞きますね。
ところが、家族がいるのに一人で食べているというケースは違います。共に暮らす家族がいるのに、いっしょに食べる人がいないときに感じる孤独は大きく、食事そのものも大切に思えなくなってしまうのです」
世の中にさまざまな健康法が溢れる今、あれもこれもと手を出して、結局どれも長続きしなかったり、極端な食事制限に走って健康を害したりする人は多くいます。
萩原先生は、自分に合った健康法を求めてさまよう人たちに、「すぐそばにいる青い鳥に気付いて」とメッセージを送ります。
「遠くにあると思っていた幸せが意外と身近にあったという青い鳥の寓話のように、日本人が健やかに生きるための秘訣も、ずっと昔から私たちのそばにあります。ぜひ、食生活を見直して、日本食を家族で楽しくいただくことから始めてみてください」
1994年広島大学医学部医学科卒業、2004年大阪大学医学系大学院博士課程修了。大阪大学大学院医学系研究科呼吸器・免疫アレルギー内科助教、漢方医学寄附講座准教授を経て、2017年には先進融合医学共同研究講座特任教授に就任。2013年より、日本初となる「がんケトン食治療」の臨床研究をスタートし、注目を集めている。一般社団法人ロカロジ協会理事。