世界を旅する料理人
沼尻匡彦さんが伝える
南インド料理の味わいとティファンの天然発酵
2021/03/18
世界を旅する料理人
2021/03/18
近年、インドのケララ州やタミルナドゥ州など、インド南部のミールス(ライスに汁物やおかずがついた定食)やティファン(豆や米から作るスナック類)を出すお店が、東京を中心に増えています。
そんな南インド料理の普及活動を1980年代から続けてきた先駆者の一人で、現在はレストラン「ケララの風モーニング」を営む沼尻匡彦さんに、南インド料理への想いとティファンの天然発酵についてお話を伺いました。
日本で愛好家が急増している南インド料理。野菜をふんだんに取り入れ、カレーリーフなどのハーブを使用し、マメ科のフルーツであるタマリンドの酸味がポイントでもある、爽やかな味わいが特徴です。インド料理の定番として知られてきたバターチキンカレーやナン、タンドール料理などの濃厚さとは異なる、軽やかなおいしさに注目が集まっています。
特にミールスは、おなかにもたれず、従来のカレーのイメージとは異なる食べやすさが魅力だという人も少なくありません。また、ティファンの一部には、酵母と乳酸菌を発酵させるサワードウのパンのように、生地を天然発酵させて作る物があり、カレーファンのみならず、発酵ファンからも関心を向けられています。
沼尻さんと南インド料理の出合いは、インド・ケララ州の中心都市であるコーチン。商社勤務だった沼尻さんは、石材や粘土など原材料輸入の仕事で、1980~82年に現地に駐在していました。
赴任半年後に、取引先工場の社員食堂で庶民的な南インド料理のおいしさに衝撃を受け、それまで食べていた高級インド料理との違いに驚いたのが、すべての始まりだったとのこと。
「ライス、サンバル(豆と野菜のスープ)、アチャール(漬け物)、ヨーグルトの素朴な食事でしたが、圧倒的に食べやすくて、おいしかったんです。油っこいそれまでのインド料理のイメージを、大きく覆されましたね」
駐在生活で南インド料理の虜になり、帰国後はみずからその再現に挑戦し始めた沼尻さんでしたが、当時は日本語のレシピ本もなければ、インターネットも普及しておらず、情報を集めることができません。
また、豆やスパイス、ハーブといった必須の材料も、日本では入手困難でした。
そこで、洋書のレシピ本を活用するため、工業英語能力検定(現在の技術英語能力検定)にも挑戦し、語学をブラッシュアップ。あらゆるルートから食材入手を試み、野菜やハーブは自分で育てたり、農家に自作の南インド料理を食べてもらったりして、栽培を依頼するなどの努力を重ねてきたそうです。
「当時、百貨店でコリアンダー(パクチー)がないかと尋ねたら、その名前すら知らない店員に不審者扱いされたり、畑でヘビウリやニガウリを育てたら、見たこともない変な植物だと苦情が来たりしましたね」
90年代後半になるとインターネットが普及し、世界が一変。レシピや食材の情報が手に入るようになり、外国料理の専門家やマニアたちが盛んな情報交換を始めました。
そこで、沼尻さんは料理の腕を磨きつつ、ミールスなどの南インド料理を出す食事会を公民館で開催し、そのおいしさを広める活動を2000年にスタートします。最初は、食事会の参加者を募るため、アジア料理のブログなどを運営するマニアたちにメールを送って呼びかけたそうです。
「当時はずいぶん気味悪がられました(笑)。よくわからない食事会の勧誘が突然届くんですから。最初は断りの返信すら少なく、なかなか人が集まりませんでしたよ」
とはいえ、参加者たちのあいだで「とても珍しい料理で、しかもおいしい」ということがだんだん口コミで広がると、間もなく告知を出せば即定員となるほどの人気に。北海道から沖縄まで全国で開催するようになり、一度に200人もの参加者が集まった会もありました。そして、この8年間続いた食事会で提供したミールスは、延べ5,000食にも上るといいます。
2008年には、南インド料理店「ケララの風」を東京・大森にオープンします。震災を機に運営形態を変え「ケララの風II」と改名してからは、さらに大繁盛店に。現地スタイルを再現した、おかわり自由のミールスが大人気で、土日は20席程のお店に、3時間で100人以上のお客さんが詰めかけることもあったそうです。
その後、2019年にはミールスの提供を終了し、ティファンに特化した営業に転換。店名を「ケララの風モーニング」とし、現地の朝食を意識したメニューで、現在は営業しています。
「朝食にティファンを食べ、ランチにミールスを食べるのが現地のスタイル。だから、当初の開店時間は早朝6時46分にしていました。端数の印象で覚えてもらおうというのと、喫茶店のモーニングより早く始める目論見でね。でも結局、今は10時開店で落ち着いています」
ミールスが知られるようになった今、次はティファンを日本のインド料理ファンに広めたいと語る沼尻さん。今回は特別に、ティファンには欠かせない、天然発酵させた生地で作るイドゥリ、ドーサ、ウタパムの調理を見せていただきました。
まず、生地の材料となるのが、インディカ米、ウーラッドダル(黒もやし豆の皮なし挽き割り)、フェヌグリーク(メティシード)です。
「少々のフェヌグリークを加えることで、発酵がうまく進みます。このフェヌグリークとウーラッドダルに発酵に適した微生物がついているようですね。一方で、米についている微生物はしっかり洗い流したほうがいいんです。こうした発酵のメカニズムについては、専門の学者に研究してほしいものです」
ウーラッドダルとフェヌグリークを混ぜて40℃ほどのぬるま湯に浸け、別の容器では米を冷水に浸け、約1時間吸水させます。その後、ウーラッドダルとフェヌグリークは浸けた水といっしょに、米は一度よく洗い流してから再び水を加え、それぞれをミキサーにかけます。このようにする理由は、ウーラッドダルの常在菌の活動を優勢にして発酵させるためだそうです。
この2種類のペーストを混ぜ合わせた物を発酵器に入れて16時間、30℃(南インドの夜間の外気温)に保温。イースト菌などの発酵スターターを加えない、天然発酵を行います。
そして、この発酵した生地を、専用の型でどら焼きのような形状に蒸し上げた物がイドゥリです。
発酵することで生地が膨らみ、軽やかな食感に。酸味と若干の甘味も加わり、味わいがより豊かに変化します。ミールスにもついてくる定番のサンバル、ラッサム(酸味のあるスープ)などの汁物、チャトニ(ペースト状の薬味)と合わせると抜群のおいしさです。
さらに、鉄板で薄いクレープ状に焼いた物がドーサです。
カリッと薄く焼き上がったドーサは、丸めた見た目も素敵です。サクサクした部分と、もちっとした部分があって、食感も楽しめます。
そしてこの生地に、野菜などの具をトッピングしてパンケーキ状に焼いた物がウタパムです。
実は沼尻さん、聞けばかなりの発酵マニア。趣味の領域では、インド料理以外のさまざまな発酵料理も試みているそうです。興味深いのは、日本の大豆ではなく、インドのダル(各種の挽き割り豆)で味噌を作る実験です。
「ムングダル(緑豆もやし豆の皮なし挽き割り)は発酵が早く、甘味のある味噌ができます。一番おいしいのは、チャナダル(ひよこ豆の皮なし挽き割り)の味噌ですね。ウーラッドダルは、ちょっと癖の強い発酵臭が出てしまいます。インドのダルで納豆も作れますよ。あまり糸は引きませんが、おいしいです」
こうした発酵の挑戦や、新しい料理の創作も大好きな沼尻さん。しかし、お店で提供する料理に関しては、南インドの現地スタイルをそのまま再現することに徹し、アレンジは一切加えないと決めています。それは、南インドの味が、日本人の嗜好にとても合うことを、お客さんに知ってもらいたいから。
「呉服屋さんのイベントに呼ばれて、下は60代、上は90代という年配のお客さんたちにミールスをお出ししたことがあるんです。皆さん口をそろえて『初めての味だけど、なぜか懐かしくて、おいしい』という感想をくださったんですよ」
ごはん、汁物、豆、漬け物。そんな古くからの日本人の味覚と、素朴なおいしさのある南インドの味わい。確かに、両者にはどこか相通じる部分があります。沼尻さんの料理への遊び心と信念は、これからもたくさんの味覚の発見を届けてくれるに違いありません。
埼玉県出身。インド・ケララ州駐在時に南インド料理と出合い、帰国後、当時まだ日本ではほとんど知る人のいなかった南インド料理を広めるために日本各地で食事会を開催する。2008年、東京・大森に「ケララの風」をオープン、2011年に「ケララの風II」、2019年に「ケララの風モーニング」と店名および業態を変更し、現在はティファンに特化したメニューを提供する。
https://kerala-morning.sakura.ne.jp/