世界を旅する料理人
伊藤忍さんが教えてくれた
ベトナム料理の魅力と発酵鍋ラウマムのこと
2021/05/13
世界を旅する料理人
2021/05/13
ベトナム料理といえば、フォーと生春巻き、そして魚醤のヌックマムが有名ですが、日本ではあまり知られていない料理や発酵調味料がまだまだたくさんあります。
そんな、ベトナム食文化の多様さと魅力について、料理教室「an com」を主宰するベトナム料理研究家・伊藤忍(いとうしのぶ)さんに伺いました。
物心ついた頃から自然と料理に親しみ、高校時代には毎日のお弁当まで自分で作っていたという伊藤さん。
「母の作るお弁当の見た目が茶色っぽい印象だったので、もっと彩りを加えて、作り置きなども工夫し、自分で作ることにしたんです。調理することで変化する食材の状態に興味があって、料理への探求心が強かったんですよね」
短大の家政科を卒業後、大手クッキングスクールのアシスタントを経て、フードコーディネーターとして多忙な日々を送っていた20代の頃。息抜きとして、アジア方面への旅行を考えていたとき、その後の人生を決める一冊に出合います。
「写真家の福井隆也さんが著した『ベトナム・センチメンタル』という旅行ガイド本を読んで、ベトナム旅行に行こうと決めました。とにかく、この本に載っているようなベトナム料理を食べたいと思ったんです。当時、この本がきっかけでベトナムにハマったという人は、周りにもすごく多かったですね」
その後、『ベトナム・センチメンタル』の著者である福井さんとは、現地ベトナムで偶然知り合い意気投合。親交を重ね、伊藤さんの最初の本の共著者となりました。まさに運命の出会いといえるでしょう。
旅先のベトナム・ホーチミン市では、日本からの旅行者を受け入れているベトナム料理教室に参加。伊藤さんは、ここで習ったベトナム料理に強い衝撃を受けました。
「学校で習い、仕事で使っていた、知っているつもりの料理の知識を、すべて裏切ってきたんですよ。完全にノックアウトされた感覚でした。例えば、日本の煮物なら、砂糖・塩・酢…といった『さしすせそ』の順に調味料を足しながら、煮汁が徐々に濃くなるよう煮ていくのが常識です。
しかし、ベトナム料理は、ヌックマム、砂糖、カラメル(ココナッツジュースを煮詰めたもの)を合わせた濃い液へ最初に具材を漬け込んだ後、煮汁を薄めながら煮ていく…といったように、目からウロコが何枚も落ちる体験ばかりだったんです」
伊藤さんにとってのベトナム料理の魅力について伺うと、「phong phu」というベトナムの言葉を教えくれました。発音は「ホンフー」で、漢字の「豊富」を語源とし、「たくさんある、多様」を意味します。種類がphong phuであるのが、ベトナム料理の魅力というわけです。
「ベトナム料理は、深く知れば知るほど未知の料理に出合うんです。かつての支配国である中国や、植民地時代のフランスからの影響はもちろん、独立後にやってきた華人の影響も多く受けています。そもそもベトナムには54の民族がいて、北部の少数民族や、中部以南のチャム族、カンボジアを中心とする東南アジアの民族でもあるクメール系などに、それぞれ文化色の濃い料理もあるんです。そうなると、歴史や民族についても知りたくなって、ベトナム料理にのめり込めばのめり込むほど、エンドレスの沼だということがわかるんです」
また、ベトナム料理の魅力として、「五味五彩二香」といわれることがあります。「五味」は塩味、酸味、甘味、辛味、コクのこと。「五彩」は黒、赤、青(緑)、白、黄を指し、二香は「香りの良さ」と「香ばしさ」を意味するそうです。「五味」と「五彩」については、かつてからいわれていたことだそうですが、実は「二香」の「二」については、伊藤さんが提唱したものが現在の日本で定着しているのだとか。
「ベトナム料理では、ハーブや柑橘類など、素材そのものの『香りの良さ』だけでなく、例えばニンニクを油で揚げる、カラメルにするといった調理過程で生まれた『香ばしさ』も大切にするんです。コショウなども加熱中に加えて、さらにフレッシュな香りを出すために、仕上げとして最後にまた振りかけたりします。現地ベトナムでは単に「香り」とされているものに、二系統の香りがあることに気づき、『二香』としました」
そして、日本人も絶対に共感できるベトナム料理の魅力は、お米が中心にあること。伊藤さんの料理教室の名前である「an com」も、an=「食べる」、com=「ご飯」で、「ご飯を食べる、食事をする」という意味があります。
「ベトナムでは、主に昼食と夕食にお米を食べます。軽食であるフォーなどの麺類や、バインミーなどは朝食、おやつ、夜食のイメージ。だから、日本には軽食ばかりが紹介されていて、実は最も種類の多い、ご飯に合うおかずがあまり紹介されていないんですよ」
さらには、発酵調味料の豊富さも、ベトナム料理の魅力のひとつ。魚醤のヌックマムは日本でもよく知られていますが、ほかにもこの国ならではの調味料がたくさんあります。
白くてとろりとした濃度のある液状の「メー」は、ベトナム北部の調味料。日本の甘酒の発酵がもっと進んで、甘味が消えて酸っぱくなったような感じの物といえば伝わるでしょうか。使い方の一例としては、あっさりした魚介の出汁に、深みを出す目的で少々加えたりするそうです。
また、魚醤のイメージが先行して、ベトナム料理に味噌のイメージはあまりないかもしれませんが、地方によってさまざまなバリエーションが存在するのが、ベトナムの味噌「トゥーン」です。北部のトゥーンは、挽いた大豆、トウモロコシ粉、もち米の粉を合わせて発酵させた、しゃばしゃばな液状の味噌で、煮物やタレに使ったりするそうです。
数あるベトナムの発酵食品のうち、一番好きな発酵調味料と、それを使った料理について伊藤さんに聞いてみました。
「南部のメコンデルタが本場のマム・カーと、それを使った鍋料理のラウマムが大好きですね。『マヨラー』ならぬ、『マムラ―』なんです(笑)」
マム・カーとは、魚を塩漬けにしてからヌックマムに漬けた発酵調味料で、マムは「魚介の発酵物」、カーは「魚」を意味します。
ラウマムは、このマム・カーをたっぷり溶かし込んだスープをベースにした鍋料理のこと。レモングラス、ショウガ、豚ばらの風味と、砂糖の甘味も効かせたスープに、エビやタウナギなどの魚介類、そしてたっぷりの野菜を加えて楽しむ、ディープなメニューです。
「味つけに少々とか、タレにちょっと使うというレベルではなく、スープそのものが濃厚なマム味なので、もうマムまみれになれます。塩辛いマムに、砂糖の甘味を効いた濃いスープになっており、野菜が大量に食べられるのも魅力ですね。
ベトナム人にラウマムが好きだというと、すごく喜んで取材に協力してくれるんですよ。ちょうど日本人が外国人から『納豆が大好き』と言われて、『驚きつつもうれしい』みたいな感覚と近いのかもしれません」
2021年には、足立由美子さん、鈴木珠美さんとの共著「ベトナム料理は生春巻きだけじゃない」の英語版である「Real Vietnamese Cooking」が世界に向けて出版されました。日本人によるベトナム料理本が英訳されるのは、異例のことだそうです。
日本人がまだ知らないベトナムの味を、丁寧に伝えてくれる伊藤さん。
今後の展望について伺うと、「これからも料理を通して、ベトナムの魅力をもっとたくさんの人に知ってもらいたいですね」と教えてくれました。
ベトナム料理研究家。ベトナム・ホーチミン市から帰国後、ベトナム料理研究家として活動開始。現在は東京・渋谷区で、ベトナム料理教室「an com」を主宰している。料理番組への出演や、雑誌へのレシピ提供のほか、「ベトナムめしの旅」「ベトナムかあさんの味とレシピ」など、ベトナム料理に関する著書・共著を多数出版。各方面でベトナム料理に関する活動を展開している。
ベトナム料理教室an com