ゆたかな暮らしの歳時記

長寿を願って菊を愛で
菊酒を楽しんだ「重陽の節供」

2022/09/01

長寿を願って菊を愛で菊酒を楽しんだ「重陽の節供」
長寿を願って菊を愛で菊酒を楽しんだ「重陽の節供」

「重陽の節供」をご存知でしょうか? 9月9日「重陽の節供」は、「菊の節供」ともいわれ、「桃の節供」や「端午の節供」と同様、五節供のひとつです。雛まつりで馴染みのある「桃の節供」、子どもの日として祝日になっている「端午の節供」などと比べ、現在では耳にすることの少ない「重陽の節供」とは、どのような日でしょうか。食文化研究家の清絢(きよしあや)さんにお話を伺いました。

奈良・平安時代の貴族たちによる菊の宴

月と日が同じ奇数で重なる日、17日、33日、55日、77日、99日は厄日とされ、古代中国ではさまざまな厄払いが行われてきました。これらは五節供と呼ばれ、奈良・平安時代の貴族たちに広まっていきます。なかでも9月9日は、奇数の中でもっとも大きな数の日であることから、「重陽の節供」として重視されていました。まずは、清さんに「重陽の節供」の起源について教えていただきました。

食文化研究家の清絢さん

「重陽の節供は、中国の故事『桓景(カンケイ)の物語』に由来するといわれています。桓景はある日、神通力のある男性に『次の9月9日に一家に災いが降りかかる。それを避けるために、高い山に登り、菊の花を入れたお酒を飲むように』と助言を受けます。その言葉の通りにした桓景は、無事に災難を逃れることができたという故事から、中国では9月9日に菊酒を飲んだり、野山に出かけ食事をする慣習が生まれました。日本でも、奈良・平安時代に貴族の間に広まっていきました」

日本書紀には、68599日に宴を行ったという記録が残っています。また、平安時代になると宮中行事として慣習化。『菊の宴』として、菊酒を楽しんだり、菊の花を愛で、その出来栄えを競い合う「菊合(きくあわせ)」などを行っていたそうです。

「『着せ綿(きせわた)』も重陽の節供に行われた慣習のひとつです。着せ綿とは、重陽の節供の前夜、菊の上に真綿を乗せておき、翌朝、菊の香りと朝露を含んだ綿で顔を拭うと若返るというもの。平安時代の貴族たちの間で盛んに行われ、その様子は『枕草子』にも記されています」

現在秋になると和菓子店に「着せ綿」という菊の花を模した練りきりのお菓子が並ぶことがありますが、これも重陽に由来しています。

菊の着せ綿と菊酒、栗が描かれている 
(出典:『絵本都草子』(『日本古典籍データセット』(国文学研究資料館所蔵)

看菊や栗ご飯を食して
重陽の節供を楽しんだ江戸の人々

江戸時代になると、五節供は祝日となりました。そのため「重陽の節供」は一般の人々の間でもよく知られた日となっていきます。

「江戸では、人々が重陽の節供に菊酒を楽しんだり、菊を愛でたりしたという記録が残っています。江戸時代後期、品種改良によってさまざまな朝顔が生まれて人気となりましたが、同じように菊の花の種類も多様になり、『看菊(かんぎく)』といって菊花展や菊細工を鑑賞することが流行しました。また、この日は「栗の節供」とも呼ばれ、栗ご飯を食べたり、焼き栗や、煮しめに栗を入れたりしたという記録が残されています。お祝いに栗を贈りあったりもしたようです」

少女が菊酒に浮かべるための菊の花びらを集めている
(出典:「豊歳五節句遊(重陽の節供)」(国立国会図書館デジタルコレクションより))

「大阪では、重陽の節供の前に栗や松茸の市が開かれていましたし、柿やぶどうもお供えに用いられました。実りの多い秋だからこそ、重陽に合わせて秋の味覚を楽しんだようです。また、滋賀や東北では、食用菊が栽培され、この日に菊の花をおひたしにして食べていた記録も残っています」

現代でも、菊を育て食す文化はそれらの地域で受け継がれています。滋賀県の坂本にある西教寺では、秋になると「坂本菊御膳」という菊を使った料理を提供。山形県や新潟県、青森県などは食用菊の栽培地として知られるようになりました。

明治時代になり
次第に忘れられていった重陽の節供

しかし重陽の節供は、他の節供に比べると盛んな行事にはならなかったと、清さんは言います。

「桃の節供や七夕、端午の節供は、子どもたちの成長を祝ったり、家を飾ったり行事食を楽しんだり、江戸だけでなく日本中に広がっていきました。しかし、重陽の節供はそれほどではなかったようです。9月というと、農村部ではさまざまな農作物の収穫を祝う『収穫祭』が開かれます。たとえば、九州のお祭り“おくんち”も収穫に感謝するお祭りです。また、9のつく3日間を“三九日(みくにち)”と呼び、99日、19日、29日はお祭りをするという地域もあります。それらのお祭りは重陽の節供が休日になるよりも古くから行われており、大変盛大であったため、重陽の節供としてはそれほど浸透しなかったと考えられます」

明治時代になり五節供が休日でなくなると、この日に厄払いをしたり、長寿を祝い願う風習は廃れていきました。『東京年中行事』(1911年)には、“今は余りに重きを置かれて居らぬもの”、『東京風俗志』(1899年)には“重陽の節供は殆ど廃れぬ”と記されています。
今では、多くの人にとって馴染みのない重陽の節供。そのことを清さんは「少しさみしいような、もったいないような気がします」と言います。

「重陽の節供は、今の私たちの暮らしに身近なものではなくなってしまいましたが、もともとは、厄を払い長寿を願う日です。現代の暦においては、秋というにはまだ暑さが残る季節かもしれません。でも、もともとの意味に思いを馳せ、少し高地にハイキングに出かけるなど、巡る季節を楽しんでみてはいかがでしょうか」

清 絢 (きよし あや)さん

食文化研究家

清 絢 (きよし あや)さん

食文化研究家

清 絢 (きよし あや)さん

専門は食文化史、行事食、郷土食。近著は『和食手帖』(共著、思文閣出版)、 『ふるさとの食べもの(和食文化ブックレット8)』(共著、思文閣出版)、『食の地図(3版)』(帝国書院)など。

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