ゆたかな暮らしの歳時記

時代とともに変化し続けてきた
お正月とおせち料理

2023/12/28

時代とともに変化し続けてきたお正月とおせち料理
時代とともに変化し続けてきたお正月とおせち料理

お正月料理の定番であるお重に入ったおせち料理や鏡餅は、いつ頃から始まったのでしょうか?時代や地域が変わるとどのように変化するのでしょうか。食文化研究家の清絢(きよしあや)さんにお正月とおせち料理について教えてもらいました。

平安時代、おせち料理のはじまり
なぜお正月にお餅を食べるのか?

古来日本では、一年の節目にお祝いや厄除けをしてきました。特にお正月は歳神様を迎え、五穀豊穣や一年の安寧を願う大切な日でした。遣隋使や遣唐使などを通して大陸との交流が盛んになった奈良時代以降、日本古来の風習や祭祀儀礼と中国から伝わった暦や年中行事が融合し、お正月の文化が始まったと考えられていますと清さんは言います。
「平安時代には、元日に、四方拝といって天皇が出御して天地四方の神々を拝し、厄災を払って、人々の幸福や子孫繁栄、五穀豊穣を祈る宮中行事が行われました。四方拝のあとに行われた節会(せちえ)では、餅や大根、猪肉、鹿肉といった堅い食べ物を食べて長寿を祈願する『歯固(はがため)』という行事が行われました。鏡餅の起源はこの歯固餅だと考えられています。こうした儀礼の際の食事では、神様にお供えをした食べ物を下げて、参列した家族や地域の人たちで共食する「神人共食(しんじんきょうしょく)」が欠かせませんでした。行事食の本来の意味は、こうした神人共食によって、災いや邪気を祓い、日々の安寧を願うことにあったのです」

数の子、田作り、
たたきごぼう、煮豆
おせち料理の定番が確立した江戸時代

おせち料理の原型になったのは、蓬莱山(※)を模して三方に盛って供えた蓬莱(ほうらい)(または食積(くいつみ))と呼ばれるものだと清さんは言います。古くは、平安時代の『紫式部日記』(1010年頃成立)にも名前が登場するそうです。
「蓬莱は、平安時代の貴族たちの節会の祝儀(お祝いの儀式)や、鎌倉時代以降は武家たちによる酒礼(飲酒の儀式)で、酒肴として振る舞われました。その後、江戸時代中期の京都や大阪では、蓬莱は床の間に飾っておくものとなりました。また江戸では、蓬莱を食積(くいつみ)と呼んで、年始の客に出していたようですが、『客が少し取って一礼すると、元の場所に戻す』とあるので、かたちだけで実際には食べなくなっていったようです」

蓬莱山(※)を模してつくられた「蓬莱」。
<蓬莱図(喜田川季荘 編『守貞謾稿』巻26,写. 国立国会図書館デジタルコレクション)>
※蓬莱山とは、中国の不老不死などを願う神仙思想において、東方の海上にあると信じられていた山のこと。

「食積が食べられない飾りになってきた頃から、食べられる祝い肴として、数の子、田作り、たたきごぼう、煮豆などをお重に詰めたものが登場します」と清さん。雑煮は室町時代にはすでに食されていましたので、この頃すでにおせち料理と雑煮を食べる習慣が登場していました。

年賀客をもてなす様子
(『日用惣菜俎不時珍客即席庖丁』国文学研究資料館, 古典籍共同研究事業センター別置資料より)

江戸時代には、お正月や五節供を祝う習慣が庶民の間でも定着、行事食も広まっていきました。同時に、地域ごとにさまざまな食文化が発展します。江戸時代の文化年間に日本各地の風俗を調査した『諸国風俗問状答』には、お正月料理について「数の子、田作り、たたきごぼう、煮豆など」のほかに、各地にどのようなお正月料理があるか尋ねている記述があります。
「全国的に、数の子、田作り、たたきごぼう、煮豆は共通して食べられていたことから、おそらく幕府からお正月にはこれらのものを用意するようにというような、何らかの御触れがあったのではという説もあります。そのほかに、地域特有のお正月料理としては、現在の新潟県長岡市にあたる地域では塩引き鮭が、福井県小浜市にあたる地域では棒鱈の煮物などが挙げられています」
これらの食べ物は、今も年末年始の料理として受け継がれているものも多いそうです。

新潟県・塩引き鮭。新潟の年越しには欠かせない年取り魚として知られている。

女性向け雑誌の影響で
さまざまなおせちが誕生した明治〜現代

おせち料理はその後、昭和の初期ぐらいまでさまざまな地域性を残しつつ続いてきました。
重箱に加えて煮しめを大皿にもりつけたり、鯛など尾頭付きの魚を用意したり、地域によってさまざまなお正月料理が発展していきましたが、明治以降、都市部ではどんどん画一化されていきます。

「学校教育が発展、主婦向けの雑誌が人気を博しました。その中でおせち料理が取り上げられ、都市部の人たちを中心に新しいスタイルのおせち料理が広まっていきました。江戸時代に定着した数の子、田作り、たたきごぼう、煮豆といった定番に加えて、かまぼこ、きんとん、昆布巻、くわいなどが、新たに明治以降に定番化していきます」

また、明治、大正にかけてすでに洋風や中華風のおせちが提案されているそうです。
「ハムやローストビーフなどを加えた、新しいスタイルのおせち料理の模索が盛んに行われました。現代につながるような多様なおせち料理が登場しています」

昭和初期まで、さまざまな料理を詰めた重詰めのおせちを楽しむ人が増えましたが、戦争により食糧事情が悪化。戦後、高度経済成長を迎える昭和30年代くらいから、再びおせち料理にも華やかさが戻ってきます。
また、団塊の世代の人々が都市に移って結婚し、核家族化していくという時代の流れから、おせち料理が地方の食文化から切り離されていきました。昭和40年代には、メディアを通して広められた華やかなおせち料理のイメージが定着していきます。その後、家電や流通が変化し、雇用機会均等法などによって女性の社会進出が顕著になり、食が簡便化。スーパーやコンビニで手軽に購入できるおせち料理が増えていきました。

「暮らしはさまざまに変化し、それにともなってお正月の過ごし方も多様化しています。しかし、お正月を祝いたい、おせち料理を食べるという文化は今も続いています。調査によると7割以上の人が今もおせち料理を楽しんでいるそうです(2020年調査)。手づくりのものを用意する、有名な料亭のものを手に入れてハレの料理を楽しむ、コンビニで選んで少量購入するなど、ライフスタイルに応じて選択できる範囲も広がりました。せっかくのお正月ですから、できれば我が家のおせちやお雑煮を子どもたちに伝える機会にしてほしいなとは思いますが、 “こうでなければ”と考えず、暮らしにあったお正月のお料理を選び、楽しむ豊かな文化が続いてほしいと願っています」

清 絢 (きよし あや)さん

食文化研究家

清 絢 (きよし あや)さん

食文化研究家

清 絢 (きよし あや)さん

大阪府生まれ。専門は食文化史、行事食、郷土食。主な著書に『ふるさとの食べもの』(共著、思文閣出版)、『食の地図』(帝国書院)など。近著に『日本を味わう 366日の旬のもの図鑑』(淡交社)がある。一般社団法人和食文化国民会議 幹事。農林水産省、文化庁、観光庁などの食文化関連事業の委員を務める。

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