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おいしく長寿。魅惑の発酵王国NAGANO
創業128年の歴史ある酒蔵で
本格的な酒造りを復活させた女性杜氏(とうじ)
2024/07/25
創業128年の歴史ある酒蔵で本格的な酒造りを復活させた女性杜氏(とうじ)
おいしく長寿。魅惑の発酵王国NAGANO
2024/07/25
古くから神社仏閣が多く建てられ、信州の鎌倉とも称されている長野県・上田市塩田平(しおだだいら)。山々に囲まれた田園風景の中を、上田駅と別所温泉駅をむすぶローカル電車が走り抜けていきます。そんな日本の原風景ともいえるのどかな地に、明治29年創業の若林醸造はあります。「清酒月吉野(つきよしの)」と書かれた看板と杉玉が吊るされた門から迎えてくれたのは、蔵元であり杜氏の若林真実(わかばやしまみ)さんです。学生時代は実家の酒蔵を継ぐなど考えたこともなかったという若林さん。一旦東京で就職した後、決意して2016年に家業を継承。同蔵初の女性蔵元杜氏であり、長野県では7番目の女性杜氏になられたことから、注目を浴びました。そんな若林さんが目指した酒造りについてお話を伺いました。
いまある環境から離れることで、その場所の価値がわかることがあります。若林真実さんの場合もそれに近いものがありました。長野県上田市に生まれ育った若林さんは、学生の頃は英語と欧米の文化や音楽が大好きでした。代々続く酒蔵の娘という意識はありましたが、興味は外の世界へと向き、高校を卒業すると東京の大学に入学します。英語を専攻していたこともあり、アメリカ・シアトルに短期の語学留学をしたときのことでした。
「同年代のクラスメイトと話していたとき『私の実家は日本酒の酒蔵なの』と言うと、軽く伝えたつもりが、みんな『本当?』『すごい!』と反応し、『日本酒ってどうやって造るの?』『酒蔵の仕事ってどんな感じ?』といった質問がたくさん飛んできました。でも、自分の家の事なのに、全く答えられなくて…。実家は小さな酒蔵ですが、海外の人からしたら日本の文化の一翼を担っているのだと実感しました。自分は日本人なのに日本の文化について、何も伝えられない。そのことがすごく恥ずかしかったです」
そんな思いを抱いたものの、卒業後は東京で就職をします。そしてある時、WEBで地元の新聞を見ていたところ、ふと若林醸造について書かれた記事を見つけました。「若林醸造が新たに甘酒の製造・販売を始めた」といった内容でした。
「両親はがんばっているんだなと思ったら、実家のことが気になり始めました」
日本酒の国内出荷量はピーク時の昭和48年には170万ℓを超えていましたが、他のアルコール飲料との競合などにより年々、減少傾向にありました。時代の流れの中、廃業をする老舗酒蔵も出てきました。若林醸造も商売を存続するために、コスト削減や効率化を考えて、自社による酒造りではなく、大半を委託醸造(共同製造による生産、販売の集約)に頼っていました。さらに新たな販路を得るため、甘酒造りや地元の果物を使ったジュース加工業務も始めていたのです。若林さんは就職した後も度々帰省をしていたのですが、ある日のこと両親が話す内容を小耳に挟んでしまい、愕然とします。
「両親の代でもう酒蔵をたたもうかという話をしていたんです。すぐに思ったのは『もったいない』ということ。母屋は重厚な歴史のある建物でしたし、私にとっては生まれ育った場所なので、自分のアイデンティティがなくなるようで恐怖感を感じました。もし他の誰かの手に渡ったら建物自体もなくなるかもしれません。なくすのは簡単かもしれないけれど、こういう物って二度とは造れません。後継者がいないのが問題であれば、自分が継げばいいと思いました」
若林さんは東京の会社を辞め、家業を継ぐために実家に戻ります。とはいえ酒蔵を立て直そうという強い気持ちではありませんでした。
「戻ってきたのはいいけれど、日本酒がどうやって造られているのか全く知らなかったんです。東京で就職したのは婦人服の会社で、洋服の生地探しやパターン起こしなど、一からもの造りをする会社でした。日本酒も同じ『もの造り』。それなら原料や製造方法など、すべてをちゃんと勉強したいと思いました」
若林さんは市内でも一番大きい「信州銘醸」という酒蔵に修行に行くことにしました。そこで若林さんの人生を変えてくれた一人の杜氏との出会いがあったのです。
「私は実家の酒蔵が継続できればいいだけだったのですが、その杜氏さんのおかげで、私も杜氏になろうと思ったんです」
日本酒が好きな人であれば、杜氏が酒造りで重要な役割を担っているのはご存じだと思います。酒造りの工程は複雑で繊細な作業です。杜氏は、原料の扱いから製品になるまで、各工程のすべてに目を配らなくてはなりません。酒造りは杜氏を頂点とした複数の蔵人(くらびと)によって行われます。
ここで一般的な酒造りの工程を簡単に説明します。酒造りは、玄米の精米から始まります。その後に、洗米し吸水させ、米を蒸す、「蒸米(むしまい)」が行われます。蒸した米の一部は麹造りに使われるため、麹室(こうじむろ)に運ばれ、そこで種菌をかけて「麹」が造られます。麹ができると「仕込み」に入り、蒸米、麹、水、乳酸に酵母を合わせ、酵母を増やし、時間をかけて発酵させます。できた醪(もろみ)を搾って、原酒と酒粕に分けます。この後、火入れや貯蔵を経て、瓶詰で日本酒は完成します。
各工程でどのような材料を使い、どのようなタイミングで、どのような製法にするのか、それらはすべて杜氏の判断で決まり、それが蔵の酒の個性や味わいにつながっていきます。
酒造りの要である杜氏という職業ですが、昔から春~秋は農家、冬は酒造りで生活するスタイルが一般的でした。多くは蔵人から始めて経験を積み重ねて杜氏になるのですが、若林さんのような蔵の後継者が勉強して杜氏になるケースも増えているようです。
若林さんが出会った杜氏は、「渡り杜氏」といい、一年の大半は米を作り、収穫後の閑散期になると蔵人を集めて酒蔵に来て、酒造りが終わると戻っていく人でした。
「修行時に出会った杜氏はすごい方で当時78歳。15歳から酒造りを始めて60年以上の経験があり、全国新酒鑑評会などで何年も連続して金賞を受賞していました。その方の下に蔵人さんが7名いて、私もそこに入りました。まだ何もできないですから、最初は、掃除や洗いものなどの雑用を一生懸命していました。でもどうしてもその方に教わりたいと思って、好奇心も働いて、仕事のあいまを見つけては、酒造りの作業を見させてもらいました」
「仕事は教えられるのではなく、見て盗め」が当たり前の世界。杜氏の仕事にマニュアルなどなく、自身の経験と体得してきた技術が手のうちにあるだけです。そんな職人の世界にどんどん魅せられていった若林さん。また、普段は寡黙なのに、口を開くときは実に的を得た事を話す杜氏の人柄も仕事人として「恰好良く感じました」(若林さん)。また、熱心に仕事を覚えようとする若林さんの姿勢に、杜氏からも「ちょっと見ていてごらん」などと声がかかるようになりました。そこで行われていたのは、新しい技術を取り入れながらも、ベースにあるのは昔ながらの手間暇をかけた伝統的な酒造りでした。
「徐々にですが、いろいろな作業を見せてくれて、『これやっとけよ』とか声をかけてもらえるようになったんです。でも、やっといろいろと教わることができると思った矢先に、その杜氏の方は仕事中に倒れ、そのまま急逝してしまったんです」
倒れていたのは麹室(こうじむろ)という酒造りにとって大切な麹造りをする部屋で、「酒蔵の財産」ともいえる大切な場所でした。若林さんは倒れているところを最初に発見し、ドクターヘリで病院に運ばれる際にも一緒に乗り込みました。
「本当にショックで、その間にもいろいろ考えてしまいました。麹室で倒れるなんて本当に杜氏としての人生を全うされた方で、私がそんな方の最期に立ちあえたのは、何か意味があるのではないか。私は酒造りをやっていかないといけないのではないか……」
とても悲しい出来事でしたが、このことが若林さんの杜氏への思いを強くしました。それから勉強を続けて、酒蔵での修行も2年を経過した頃、修行を続けつつも、実家の蔵で初めて自分の手で仕込みをしたそうです。
「それが、初めてにしては上手くできたんです。なぜなのか考えたら、それは『麹』のおかげだと気づきました。使ったのは修行先で造った麹。実家では既に麹は造っていませんでしたから。このことから麹造りから始めないと、酒造りを理解したことにならないと思いました。それが委託醸造に頼らない、自社による酒造りの復活へとつながっていったんです」
そして約50年間使用していなかった麹室を修復し、醸造設備を整え、本格的に酒造りを始めたのが2016年。若林さんが29歳の時でした。
いま、若林醸造の蔵ショップには、「つきよしの」ブランドの色鮮やかなラベルのお酒が艶やかに並んでいます。それぞれに「白」「萌黄」「華」「緑」「空」など色や自然にちなんだ名前がつけられています。従来からあった「月吉野」から「つきよしの」にしたことで、女性らしいやわらかさが感じられます。杜氏となった若林さんが目指したのはどんなお酒だったのでしょうか。
「特徴のポイントは3つあり、すっきりしていること。雑味がないこと。飲みやすいことです。あとは甘い、辛い、やわらかい、硬いというバリエーションがある感じです。こういうお酒にしたのは2つ理由があって、1つはまずは自分が飲んでおいしいと思えたから。うちは毎日晩酌をしており、家族もそういうお酒が好きなので、好きな人に喜んでもらえるお酒を造りたいなと思ったからです。もう1つは別所温泉が近いこともあり、昔からうちのお酒を置いていただいている旅館のためです。料理と合わせやすく、飲みやすくて何杯も楽しめるのが旅館のお客様にとっても喜ばれるのかなと思いました」
原料の酒米は昔から長野県の「美山錦(みやまにしき)」と「ひとごこち」を使っていますが、若林さんの代から、地元の上田市や東御市(とうみし)の農家と直接契約した米を使っています。
「日本酒の造り手が自ら酒米作りを頼んでいるので、農家さんからしても思い入れが変わると思うし、直接情報交換できるのがいいですね。今年の米の状況も聞けますし。田んぼを見に行くことも時々あって、いろいろ教えていただいています。この辺りの田んぼも宅地化が進んでいるんです。微力ではありますが、田んぼを少しでも守れたらいいなという思いもありますね」
また、「つきよしの」の特徴を出すために、製法で譲れないところもあったといいます。
「大きくは2つあり、米は精米(米磨き)、浸漬(しんせき/水に漬けて吸水させる)の後、蒸し米にするのですが、その際に「自然放冷」といい、全ての米を枯らし台に移して、自然に冷ましています。もう1つは、最後の醪(もろみ)から生酒を搾る工程で、通常は自動圧搾ろか機で搾るところ、昔ながらの槽搾り(ふねしぼり)という、酒袋に入れて自然の重みで24時間かけてじっくりと搾り、仕上げに機械の圧力で搾るという方法をとっています。これらは一般的には大吟醸などの高級なお酒だけに使われるのですが、うちでは全部にこの方法を採用しています。その理由は、一番には清潔な状態で製造できること。それから自分が造りたいお酒にとって必要な方法だったからです」
自分がやりたいと思ったイメージにまっすぐな若林さん。杜氏としての経験を積まれたいま、その佇まいには凛とした美しさを感じました。
2023年11月、若林醸造に嬉しい出来事がありました。アメリカ・カリフォルニア州サンフランシスコで開かれた、「サンフランシスコ国際ワイン品評会」で出品したお酒のすべてが賞を受賞。そのうちの1つは最高賞である「ダブルゴールド」を受賞したのです。実は2022年の初出品でもゴールドとシルバーを受賞しているので2年連続の受賞でした。でもいつから海外に進出したのでしょう?
「実は、杜氏になって間もない頃、飛行機の機内誌で取材していただいたんです。そこで私の身の上や酒造りに対する思いなどをお話しました。するとその記事を読んでくださった、アメリカでアパレル系の会社を経営する方から連絡をいただいたんです。日本文化に関わる仕事をしたいとおっしゃり、その方に輸出パートナーをお願いする形で、アメリカにつきよしのを売って行くことになったんです。その頃は自分のお酒がまさかアメリカで売れるとは思っていなくて、本当に夢のまた夢と思っていたんですが、いきなり叶ってしまったんです。実際には売り出すのに3年かかり、西海岸のレストランにやっと置いてもらえたと思ったら、すぐにコロナ禍になってしまいました。レストランのほとんどが閉鎖され、販売スピードが落ちてしましました」
そのようなアクシデントはありましたが、アメリカ市場での販売に成功、輸出パートナーによって品評会に出品されたのです。輸出用の日本酒は、「MoonBloom」といい、ラベルには月と女性と桜が描かれています。ステーキやシーフードグリルといったアメリカの料理にも合うと評判だそうです。さらに、嬉しいことが続きます。2024年には、全国新酒鑑評会にて、「つきよしの 真」が金賞を受賞したのです。
「輸出ができたことは本当にラッキーだったと思います。でも、私はどんどん範囲を広げるというよりも、自分の見える範囲を丁寧にやりたいタイプなんです。そういう意味で最近嬉しいと感じたのは、代理店さんや酒販店さんが、私どものお酒の特徴とか良い所をちゃんと理解してくれた上で売ってくださることです。出荷数も徐々に伸びてきているのがありがたいです」
蔵のショップで。壁にかけられた、幕末から大正時代に生きた政治家、久我通久(こがみちつね)氏による
「萬年仙酒」の書は創業時に初代に贈られたものだとか。
アメリカ進出の経験もした若林さんですが、同世代の酒蔵の後継ぎの方々との交流はあるのでしょうか。
「日本酒業界は仲が良くて特に地元の酒蔵の人たちとはよく情報交換しています。私たちの間では海外に売って行こうというより、私らの世代で日本酒業界全体を盛り上げたいね、なんてよく話しています
長野の話をすれば、美しい自然と豊かな水源があり、田んぼが作れる良い環境がある。原料の調達が県内でできるのが強みだと思いますね。そんな長野の良いところをアピールしていきたいです。異業種間での交流はまだ少ないですが、たとえば両親が近隣の農家で形が悪くて売れない果物を卸してもらって、ジュースに加工しているように、垣根を越えて情報交換していけたらいろいろな事ができるかもしれません。たとえば、酒蔵では酒粕の需要が減っており困っている所が多いのが実状です。何か他に良い再利用法はないか話し合っていけるとありがたいですね。
毎年、新しい商品を造ったり、新しいことにチャレンジしたりしながら、いろいろな人と関わって、自分たちのことを知ってもらえると嬉しいです。人生、明るく過ごしていきたいですね」
東京の大学に在学中、参加したアメリカ・シアトルへの研修がきっかけで日本文化や実家の酒蔵の価値を知る。卒業後、婦人服メーカーに就職、家業を継ぐために帰郷。同年秋より長野県上田市の「信州銘醸」にて3年間、酒造りの基礎を学ぶ。2016年に信州銘醸での酒造りを卒業。若林醸造で杜氏として酒造りを始める。2018年日本酒の輸出事業を開始。2019年塩田平にて酒米「ひとごこち」の有機栽培に取り組む。2023年アメリカの「サンフランシスコ国際ワイン品評会 日本酒部門」にて「Moon Bloom Daiginjo」がダブルゴールド(最高賞)を受賞。2024年「令和5年酒造年度全国新酒鑑評会」にて「つきよしの 真」が金賞を受賞。
若林醸造WEB:
https://www.tsukiyoshino.com/
オンラインショップ:
https://www.tsukiyoshino.com/onlineshop