おいしく長寿。魅惑の発酵王国NAGANO

その時代ごとに進化しながら、
いつも輝いている酒蔵でありたい

2024/09/26

長野県・諏訪市は、北西側を諏訪湖に接し、東側には霧ヶ峰高原がある諏訪盆地のほぼ中央に位置します。霧ヶ峰高原から長い年月をかけて諏訪盆地に伏流水として流れ込む、清らかな水と澄んだ空気に恵まれた地です。古くから酒造りが盛んで、この地にある宮坂醸造も、創業は江戸時代に遡ります。由緒ある酒蔵ですが、長い歴史をひも解くと山あり谷ありで、存続の危機に陥ったことも少なくないそうです。しかし、いまがあるのは、いつの時代にも伝統にあぐらをかくことなく、その時代の当主たちの革新的な采配と強い意志があったからこそ。長野県酒造組合の会長でもある、代表取締役の宮坂直孝(みやさか なおたか)さんにお話を伺いました。

若き蔵元と杜氏が
美酒造りを目指して全国行脚

もともと宮坂家は諏訪氏の家臣でしたが、戦国時代に武田や織田との戦乱に翻弄され、刀を捨てて、寛文2年(1662年)、造り酒屋になったそうです。諏訪氏の居城・高島城へお酒を納める仕事もしており、蔵の銘柄「真澄」の名は諏訪大社の御宝鏡『真澄の鏡(ますみのかがみ)』に由来しています。江戸時代の中期頃まではとても繁盛し、当時の逸話は数多く残っています。この地で半生を過ごした松平忠輝公(徳川家康の六男)が好んで飲んだとか、赤穂浪士の大高源吾がその喉越しを絶賛したなど、拝領(はいりょう)の盃や印籠も遺っているそうです。宮坂直孝さんは酒蔵の歴史を振り返って話します。
「最初は商売もうまくいっていたんですが、江戸時代末期からだんだん傾いて、大正時代にはもう力尽きた貧乏酒屋になっていました。そんな中、私の祖父である宮坂勝(まさる)が、曾祖父が病気で突然亡くなったため、二十歳そこそこで後を継いだんです。まだ酒造りも経営も何一つわからない状態で、大福帳を開いたら大赤字だったそうです。一族に『廃業したい』といったら『歴史も古いしやめてはならない』と返され、祖父は家業の立て直しを決意したわけです。そして、どうせやるなら『美酒造りに徹したい』と、強い志を共にした同年代の若い蔵人を杜氏(とうじ)に抜擢したんです」
杜氏の名は窪田千里(くぼた ちさと)さん、後に名杜氏と謳われるほどになる方です。二人は何をしたかというと、日本国中の名門蔵を次々と訪ねて、技術や心構えについて教えを請い、学んだことを持ち帰り、自分たちの技術を磨いていったそうです。
「特に広島の賀茂鶴さんは、それこそ酒造りから経営のことまで親切に教えてくれたそうです。二人は賀茂鶴さんを師と仰ぎ何度も足を運び、感謝しきれないほどのご恩をいただいたと思います」
「美酒」を目指した宮坂勝さんと窪田千里さん。長きに渡る二人の奮闘が、実を結ぶ日が来るのは、大正から昭和に時代が変わってからのことでした。

左から宮坂勝氏と窪田千里氏。
若き日に美酒造りを目指して、日本全国の名門蔵をまわり、酒造りの技術や心得を学んだ。

「真澄」を語るうえで欠かせない
「協会7号」酵母とは?

「昭和10年代の後半になると、真澄はさまざまな品評会入賞の常連になっていました。そして遂に、昭和21年(1946年)、春と秋の両方の全国清酒品評会で上位三位を独占する快挙を成し遂げてしまったんです。すると、諏訪の小さな蔵の酒がなぜそこまで抜きん出たのかと、次々に研究者たちが蔵を訪れ、その“秘密”を知りたがりました。そして、国税庁醸造試験場の山田正一博士が、遠方はるばる足を運ばれ、蔵の中をくまなく調べたそうです。そして、醪(もろみ)から新種の酵母を発見したのです。祖父は、蔵にとってこれほど名誉なことはないと、真澄から分離した酵母を喜んで差し出したそうです。山田博士は酵母を持ち帰り、『協会7号』と名付けました。祖父と窪田杜氏は蔵人たちに掃除なども徹底させていましたから、優良な酵母が住み着きやすい環境をつくっていたのだと思います。二人の努力と酵母の相乗効果が、真澄というお酒を開花させる栄誉につながったのです」
もちろん、同じ酵母を使っても製造方法や原材料などでその蔵独特の味わいになるのですが、「協会7号」と名付けられた真澄の酵母は、頒布が開始されると、すぐに全国の酒蔵へと広がったそうです。協会7号は、「近代日本酒の礎」と称されるほどで、頒布から約60年経ったいまでも、全国の多くの酒蔵で使用されているそうです。

諏訪蔵の中にある「協会七号酵母 誕生の地」の記念碑。
1946年に大蔵省醸造試験場の山田正一博士によって発見された。

日本酒のアルコール発酵の主役
「酵母」の役割と重要性

国税庁醸造試験場(現在は酒類総合研究所)とは、明治37年に大蔵省内に設立された研究機関です。それまでは、酒造りは個々の蔵に住み着いた蔵つき酵母に頼って行われており、酒質が安定しなかったそうです。そこで、全国の酒蔵から優良な酵母のみを採取し、「協会酵母」として認定・純粋培養し、酒蔵などに頒布することで、日本酒全体の品質改良と発展を目指したのです。お酒は糖化(原料の米の主成分であるでんぷんを麹の酵素により糖に変えること)と、アルコール発酵(酵母によって糖をアルコールに変える働き)によって生まれます。安定した酒造りをするためには、大量の酵母が必要になるため、お酒のもととなる酒母(しゅぼ)または酛(もと)の工程で多くの酵母を純粋培養します。酒母にお米や水を加え、じっくりと発酵させたものを醪(もろみ)といい、醪を搾ったものがお酒です。つまり、酵母はアルコール発酵の主役。華やかな香りや味の成分となる酸などの香味をつくり出すことから、お酒の風味を決めるのは、米よりも酵母の影響が大きいといわれています。いまでは、自治体や大学など他の研究機関などで開発された酵母もあるそうです。お酒を飲む際には酵母を意識してみるのも、面白いかもしれません。

これからの酒屋は英語の一つも
話せないとダメだ

「祖父が真澄の酒質をとことん高めた後、昭和20年代に父の宮坂和宏(かずひろ)が酒蔵に入るのですが、技術面は確立していたので、いまでいうマーケティングや設備の近代化などに力を注ぎました。まだ自転車の荷台に木箱を括りつけて配達していた時代に、トラックを買い、迅速な配達を始めたのも父が最初です。東京に得意先を開拓したり、瓶詰工場を近代化したり、また、テレビや新聞にも広告を打ち、昭和45年(1970年)の大阪万博にも出展しました。祖父と窪田さんが造って父が売る、いいコンビネーションでした。気がついたら、南信州で一番(販売実績)などといわれるようになっていて、びっくりしたのを覚えています」
日本酒の国内出荷量が、高度経済成長期とともにピークに達したのは昭和48年(1973年)のこと(農水省調べ)。常に先を読み、業界の常識を覆す、斬新な政策を打って出たのが和宏さんだったのです。そして、また時代はさらに大きく変わろうとしていました。
70年代後半、大学生だった私は卒業したら家業を継ぐのかなと思い始めた頃、父にいわれたんですよ。『これからの酒屋は英語の一つも話せなきゃいかん』と。そして、アメリカの大学に2年間行かされました。ビジネススクールだったので、ケース・スタディがあるのですが、アメリカの企業について分析してもアメリカ人に勝てるわけがない。迷っていたら教授から『実家の造り酒屋についてリポートしたら』とアドバイスされたんです。リポート制作を通して、改めて実家の商いについてきちんと向き合うことができました。後で思ったのですが、祖父も父も酒屋としては革新的で、貧乏を経験しているので常に必死だったのだと思います。伝統を守れなどといわれたことはなく、むしろ古いことだけやっていたらダメで、いかに直すか、いかに変えるかが二人の共通テーマでした。貧乏酒屋の血筋というか。とてもありがたい血筋だと感じました」
そんな直孝さんですが、帰国後すぐに酒蔵に入ったわけではありません。またそこで父和宏さんの新しい指示があったのです。「実社会を見てこい」といわれ、研修生として入った先は、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだった新宿伊勢丹の婦人服売り場。新しいブランドが次々に売り場を塗り替えるトレンドの発信地でした。
「若い女性向けファッションなので、季節を先取りして2週間に1度くらい売り場がダイナミックに変わるんです。社会人1年目で、これが世間の当たり前なのかと思っていたら、2年目になって配属されたのが酒売り場で、売れてはいたけれど、1年中商品が変わらない。婦人服のときと極端に違うんですよ。ファッション性も季節性もなし。そこで上司に何かできないかと話したら、『じゃあ、何か考えてみて』といわれ、父に相談して作ったのが『生酒(なまざけ)』という商品です。加熱処理をしない夏だけのお酒で香りも華やかなんです。それまでの生酒は地元で酒屋の関係者が少し飲むくらい。まだ流通はしておらず一般には手に入りませんでした。加熱処理していないから品質が変わりやすいけれど、冷蔵保管にすれば大丈夫なんです。それを何本か瓶詰して販売したらすごく売れて、お客さんからも『加熱処理していないだけで日本酒ってこんなにおいしいの』などと喜ばれました。それから、酒売り場の季節商品というコンセプトが根付いて、『この冬の搾りたて』『春の新酒』『秋の新酒』などといろいろ提案させていただきました。その原点になったのは婦人服売り場です。酒屋の息子が丁稚奉公に出るにしても、同業の会社や銀行あたりが多いんです。でも父は、私に小売りを経験させたかったのでしょう。新宿伊勢丹での2年間の経験は、私の酒屋人生に大きな影響を与えたと思っています」

長野県の自然豊かな環境から作られる米と清らかな水、
名杜氏によって代々引き継がれた高い技術によって真澄の味が生まれている。

日本酒はライフスタイルに
合わせて進化するべき

直孝さんが自社に入社した昭和58年(1983年)、宮坂醸造の業績はとても良かったそうです。一番売れていたのが低価格帯の“普通酒”とも呼ばれた「二級酒」です。この「級」とは昭和15年(1940年)から約50年間、消費者がお酒を購入する際の基準として長く浸透していた制度で、品質が優良なものから順に「特級」「一級」「二級」があり、価格差がありました。しかし、この制度には消費者の「飲んだときのおいしさ」や「品質」とは必ずしも一致しない側面もあったようです。
「普通酒はいわば庶民が日常的に晩酌をするお酒で、これがやたらに売れていました。祖父や父も『地元の方々になるべく良い普通酒を供給するのが我々の役目だ』といい、本当に良質な普通酒を造っていたと思います。でも、僕にとっては甘ったるくて、旨いと感じなかった。でも家族もスタッフたちもみな、『旨い、旨い』といって飲んでいるんですよ。それから、ラベルのデザインにしてもネーミングにしても新宿伊勢丹に2年いた人間の感性とはちょっと合わない。それで文句をいうと『子供にはわかんないんだ』と𠮟られました」
やがて、80年代後半頃から、日本における好景気の波、「バブル期」が訪れます。全国的に日本酒の売り上げがどんどん落ちるなか、高級ワインやウイスキー、ビール、焼酎などが売り上げを伸ばしていきます。
「あれほど売れていた普通酒が売れなくなったのです。競争相手が多いからなんて父たちはいうけれど、これは抜本的に直さないとダメなのではないかと思いました。そこで、自分好みのラベルのデザインを発注したり、そのときの杜氏にこっそり相談して、普通酒を減らして、純米酒を造ってもらったり。騙し騙しやっていたら父に見つかり、大喧嘩になりました。やがて、地酒ブームが起きて、純米酒や本醸造が売れるようになるんですが、普通酒の売り上げが激減したので業績は下がる一方。私は企画室長でしたが、社内では『若旦那ががんばらないからだ』などと責められて辛かったですね」
そんなとき、ある蔵元の知人から連絡が入ります。以前からワインオークションなどにも参加するほどワインに精通していた人で、「そういうときは頭を切り替えたほうがいいよ。僕と一緒にフランスのワイナリーを見に行きませんか」と直孝さんを誘ってくれたのです。そして数名でボルドーやブルゴーニュの有名なワイナリーを見てまわったのです。
「私にとって、このツアーはすごく勉強になりました。当時のフランスのワイナリーも決して楽ではなかったんです。高速道路の発達で流通網がヨーロッパ中に張り巡らされ、南ヨーロッパから安価なワインが、新世界と呼ばれたニュージーランド、オーストラリア、チリなどからは輸入ワインが押し寄せる……。そんな状況の中、主に小さなワイナリーを10カ所ほどまわりました。皆さん、生き残りをかけて、実にいろいろな努力をされていました」

海外で視察したことを教訓に、日本酒産業の長期的なビジネスモデルについて語る宮坂直孝さん。

このときのフランスツアー、それ以降も回を重ねた海外ツアーで得た教訓を生かして、直孝さんが掲げたビジネスモデルは次の3つでした。
1.もう一度、お酒の品質を磨き直す
「これは、時代に合わせてお酒の品質をブラッシュアップすることです。祖父や父には悪いのですが、僕がなぜ彼らの造るお酒をおいしくないといったか。普通酒は、当時の『24時間戦えますか』という栄養ドリンクのキャッチコピーにあるように、戦後の日本で皆が、がむしゃらに働いた時代のお酒なんです。諏訪辺りでいえば、田んぼで一日中汗だくになって働いて、帰ってきてさらりとした辛口のお酒なんて飲みませんよ。甘くて濃いお酒がおいしかったはずです。でも、そういう働き方をしていない我々にはおいしく感じるわけがないんです。つまり、世代によっておいしいと思うお酒の味は違って当たり前。ライフスタイルが違うんですから」
2.ツーリズムに力を入れる
「ボルドーなどは典型ですが、地方の中規模な街がワインを中心に産業を発展させて街全体が潤っています。ブルゴーニュやナパ(カリフォルニア)、ワインだけでなくドイツのビール、スコットランドのウイスキーもしかり。地方にいながら外からのお客さんを取り込んで自分たちの街を元気にしている。そんな世界の産地と比べたら日本酒産業は“鎖国”状態ですよ。長野県には約80もの蔵元があります。本気を出してツーリズムに取り組んだら、長野県は世界から見ても魅力的な場所になるはずです。
私はフランスから帰ってすぐ、平成9年(1997年)に『セラ真澄』という蔵元ショップを造りました。メーカーが小売店を開店するなんて、卸し中心の酒業界において、当時はご法度。でも、こういうことを皮切りにツーリズムを拡げていかないと、何も変わらないと思ったんです。フランスやナパの蔵では、みんな素敵なショップがあって、試飲コーナーではお客さんが幸せそうにワインを飲んでいました。それだけでもその土地に行く理由になるじゃないですか。そこで始めたのが、『諏訪五蔵 酒蔵めぐり』です。諏訪には弊社を含めて5軒の造り酒屋があり、同じ街道沿いの500m圏内に並んでいます。この5軒を飲み歩きできる通年企画なんですね。これが大好評で、コロナ明けの2023年の一年間で、約1万人の方に有料クーポンを買っていただけた。僕は、まずはこういう企画を長野県全体に増やしていきたいと思っているんです」
3.輸出に力を入れる
「これは、ある程度大手の企業にならないとハードルが高いです。だから、まずはツーリズムに力を入れて、インバウンドを呼び込んで、彼らが国に帰った際、ツーリズムで経験できたことを広めてもらうことが、最終的に輸出へと繋がっていくと思います。
もちろん、酒造組合会長としては動いています。世界にはいくつか有名なワインの展示会があるのですが、県庁のご協力を得て、昨年と今年はパリの『ヴィネクスポ (Vinexpo)』に長野県ブースを出しましたし、来春はドイツの「プロワイン(ProWein)」という世界最大の展示会に長野県ブースを出展する予定です。でも、海外の展示会に出ても、すぐに大口の契約がもらえることはまずありません。むしろ、売上より勉強が目的ですよ。たとえばブースの作り方やプレゼンの仕方を参考にしたり、現地で視察をするなどです」

宮坂家に脈々と流れる
改革の血筋

JR上諏訪駅から甲州街道を進むと見えてくるのが、宮坂醸造の蔵元ショップ、「セラ真澄」です。直線美を生かした堂々とした日本的な建物。どっしりとした二本の玄関柱の間には、潔さを感じる白い暖簾が風を受けてそよぎます。その中央には、宮坂家の家紋・蔦をイメージした美しいブランドロゴ。まるで格式高い神社のような荘厳な雰囲気でありながら、すっと引き寄せられるような温かみも感じさせます。中に入ると、左手は酒器などの雑貨のセレクトショップ、右手はお酒のショップで、真澄のラインアップが並びます。別棟には試飲コーナーもあり、広くモダンな屋内からは、立派な松が植えられた、武家屋敷を思わせる美しい中庭が望めます。

セラ真澄内にある試飲コーナー。ゆったりとした空間の中で、美しい中庭を眺めながら試飲ができる。

「5年ほど前に、商品のリブランディングをして、ブランドロゴを作り、ラベルのデザインも一新したんです。もちろん、昔からある『真澄』も残しています。でも一番大きい決定は、使う酵母を7号酵母一本に絞ったこと。実は僕の時代で、市場に好まれる香りを追い求めて他の酵母も使用していたんです。11年前から息子の勝彦がここで働きだし、最初はおとなしかったのですが、徐々にいろいろ文句をいい始めました()。『ラベルが古臭い、ネーミングが良くない、親父の造っている酒なんて旨くない』と。最初は何いってるんだと思いましたが、よくよく考えてみるとそれは30年前に私が父に向かっていったことと同じなんですよ()。やはり、若者って時代の感性とか空気をしっかり読んでいるなと思いました。酵母を7号酵母に絞ったのも、息子の強い意見があったから。実は酵母のブレンドで大ヒットした商品もあったんです。だから社内でも大変もめました。でも、協会酵母になった酒の銘柄は日本には3つしかない。6号の『新政(あらまさ)』さん(秋田県)、7号の『真澄』、9号の『香露(こうろ)』さん(熊本県)。息子に『この3つの1つである誇りを捨てるのか』といわれ、決心がつきました。7号酵母に原点回帰し、さらに、いまの人たちの感性に合うブランドイメージに変えた新ラインをリリースしたんです」

左:現在、社長室長を務める宮坂勝彦氏。
右:左から昔ながらの真澄「特撰 本醸造」、リブランディングした真澄「漆黒 KURO 純米吟醸」、
「白砂 SHIRO 純米吟醸」、「茅色 KAYA純米」、「真朱AKA 山廃 純米吟醸」

直孝さん、勝彦さんの親子で試行錯誤をくり返し誕生させた新しい真澄は、現代人の多様化する食生活に合った、料理の味わいを引き立たせる食中酒でした。7号酵母ならではの品の良いフルーツ香、おだやかできれいな酸味、辛口でありながらほのかな甘みを感じる、何杯でも飲めてしまいそうな印象です。
血は争えないとはこのことなのかもしれません。現在勝彦さんは社長室長だそうですが、未来の宮坂醸造をたくましく支えていくはずでしょう。最後に直孝さんはいいます。
「ヨーロッパのワインがそうやって伸びてきたように、これからの酒蔵は酒造り半分、観光業半分だと思っています。たとえば、レストランを併設したり、オーベルジュ(宿泊できるレストラン)を造ったり。でも、私たちは常に中堅企業でいたいです。いつの時代も細く長く、そしてキラキラと輝きながら、生き残っていく酒蔵でいたいです」

左:セラ真澄内のディスプレーが美しいお酒のコーナー。
右:雑貨のコーナーでは、テーブルに集う人たちを和ませてくれる酒器をはじめとする
セレクトされた商品が並んでいる。

宮坂直孝(みやさか なおたか)さん

宮坂直孝(みやさか なおたか)さん

清酒「真澄」蔵元・宮坂醸造株式会社代表取締役。1956年、諏訪市生まれ。慶應義塾大学商学部卒。米国ワシントン州ゴンザガ大学にてMBA取得。2004年、香港に子会社を設立するなど積極的に海外展開を進める。また2016年まで諏訪商工会議所副会頭や日本吟醸酒協会理事長を務め、観光振興や日本酒業界の発展にも尽力してきた。2022年に長野県酒造組合の会長に就任、長野県の酒蔵のイメージアップに取り組んでいる。趣味は老舗巡り、バードウォッチング、カヌー、たき火、読書、登山。

宮坂醸造株式会社 
セラ真澄(蔵元ショップ)

住所:
長野県諏訪市元町1-16
TEL:
0266-57-0303
(セラ真澄直通)
営業時間:
10:00~17:00
定休日:
水曜日および1月1日
URL:
https://www.masumi.co.jp/
URL:
https://nomiaruki.com/tour/(諏訪五蔵 酒蔵めぐり)