おいしく長寿。魅惑の発酵王国NAGANO
味噌造り120余年の暖簾を守りながら、
味噌の新しい可能性を発信し続ける老舗蔵
2024/11/21
味噌造り120余年の暖簾を守りながら、味噌の新しい可能性を発信し続ける老舗蔵
おいしく長寿。魅惑の発酵王国NAGANO
2024/11/21
「一生に 一度は参れ 善光寺」といわれるほど、多くの人々から厚く崇拝され、たくさんの人々が全国から訪れている善光寺(長野市)。そのお膝元に、明治35年(1902年)に創業したのが「酢屋亀(すやかめ)本店」です。伝統的な味噌の製造業を粛々と営んできた老舗蔵が平成8年(1996年)、仲見世通りに直販店を開店。テイクアウト商品が人気になり、善光寺仲見世通りの食べ歩き企画などでは、度々名前が挙がる店の一つになりました。味噌加工品を次々に販売し、味噌の魅力と新しい可能性を提案してきた老舗の挑戦と事業拡大の立役者、代表取締役・青木茂人(あおき しげと)さんにお話を伺いました。
青木茂人さんの祖父で、酢屋亀本店(以下すや亀)の創業者・青木亀吉さんは、善光寺の近くで建具職と農業を兼務する家に生まれました。17歳のときに商いの道で身をたてようと、信州で最も古い味噌蔵の一つとされる、小諸市の「酢屋久衛門商店(現在の酢久商店(山吹味噌)」に修行に入り、醤油・味噌の醸造技術を修得されました。その精勤ぶりは誰からも称賛されるほどで、32歳のときに暖簾分けを許されたそうです。
「酢屋久衛門商店さんからいただいた『酢屋』と、自身の名前の『亀』を合わせて、『酢屋亀』の屋号になったんですね。祖父は明治35年に独立すると、醤油の製造・販売を始め、たった10年ですや亀の社屋(以下本店)を建てました。店の前に道路が開通して田んぼが売れたのと祖父は薪炭業や製粉業も行って成功していたのです。
その後、大正3年(1914年)に第一次世界大戦が勃発し、父(2代目亀吉)は戦地に行っていたのですが、帰還後の終戦の翌年に家業を継ぎました。当時、『信州味噌』が関東で売れ始めたこともあり、父の代から味噌屋として新創業したんです」
その後、3代目となる青木(茂人)さんが家業を継いだのが、昭和50年(1975年)、その前の2年間は、祖父、父同様に酢屋久衛門商店で修行をしたそうです。
「私にとって、修行時代の2年間がその後、自社を経営する上で、とても貴重な経験となりました。それがなかったらいまのすや亀はなかったかもしれません。通販のノウハウを学べたし、東京での得意先も得られて、人脈もつくれたわけです。また上司に嫁さんまで紹介してもらえました。これが一番大きかったかもしれません(笑)」
茂人さんが家業に入った頃、当時のすや亀は決算書を見る限りでは、借金もなく優良経営と思われました。
「実際には、消費者の味噌離れが進んでおり、売上は落ちる一方でした。卸中心の商売には限界を感じていました。味噌は真面目に造っていましたが特色がない、限られた得意先、古びた建物、錆だらけの機材、従業員の高齢化などマイナス面ばかり目立ちました。だからこそ、周囲に気兼ねなく、思い切って変えることができたんです」
「味噌屋だから味噌を造っていればいいという発想を捨て、昭和51年から本店で通販を始めました。といっても最初は何を造ればいいのか見当がつかず、まずは『味噌』や『味噌漬け』を販売したのですが、当たり前すぎたのか売れませんでした。次に販売したのが『野沢菜漬』。正直、なんでこんな物が売れるのかと思いましたが、これが最初の大ヒットになったんです。翌夏の乾麺の蕎麦もそこそこ売れて、信州の特産品でやっていけば、味噌じゃなくても売れるんだと思いました」
近隣農家から回してもらった、「りんご」や「サン・プルーン」、自家製の「白うり粕漬」「戸隠たくあん」など漬物にも力を入れました。漬物は自家製で、青木さんの母・晴子さんの漬物が基本となりました。
「野沢菜漬は、塩漬けした野沢菜を白醤油と鰹節、昆布だしで味を調えたもので、戸隠たくあんは青くび支那大根という漬物用の大根を天日干しにし、ニガリの入った自然塩と米ぬか、昆布などと一緒に一冬漬けたもの。いずれも昔ながらの素朴な家庭の味で、ごく普通の食品でした。一ついえたのは、我が家ではアミノ酸などのうま味調味料を使ったことがないので、最初から無添加です。発売当時は色が悪い、日持ちしない、うま味が足りないなどのご意見もありましたが、初心を曲げずに今日にいたっています」
味噌加工品の開発も本格的に行うようになりました。売れた物はシリーズ化したそうです。最初の商品「くるみ味噌」が売れると、おかず味噌シリーズとして、「ふき味噌」「そば味噌」「ゆず味噌」「カレー味噌」など16種類も商品化し、梅シリーズは「甘露梅」「おむすび梅」「梅漬」、家庭の味シリーズは「黒豆っ子」「しょうゆ豆」「きざみ味噌漬」「野沢菜炒り菜」といった調子でした。
「次第に顧客の名簿も増え、年4回のダイレクトメール(はがき)や、カタログも送付するようになりました。お歳暮やお中元でドカンと売れると、人手が足りなくて家内と2人で遅くまで残業して伝票の宛名書きをしたのを覚えています」
通販でコツコツと業績を伸ばした末、青木さんの入社から10年後の昭和60年(1985年)、老朽化していた本店を改装することができました。そのときに始めたのが、飲食ができるコーナー「食味処」です。看板メニューとなったのが、味噌を塗った「焼きおむすび」でした。
「改装にあたってお手本にしたのが、小布施の菓子店・竹風堂(ちくふうどう)さんと、会津若松の味噌専門店・満田屋(みつたや)さんです。こちらには何度も足を運びました。両店とも老舗でしたが途中から、竹風堂さんはテイクアウトもできる炊きたての『栗おこわ』を、満田屋さんは店内に『味噌田楽コーナー』を始めて大成功していたんです。そこからヒントを得たのが、食味処と味噌を塗った『焼きおむすび』です。満田屋さんの田楽を焼くときの味噌の香りがとても良かったので、うちも客寄せ効果を期待しました (笑)。また、竹風堂さんはうちの改装の少し前に、改築された店舗が素晴らしかったので設計士さんを紹介してもらうなど、いろいろと相談させていただきました。私は「人真似、もの真似、芸のうち」とよくいうんですが、単なる真似ではなく、自分のアイデアを組み合わせることが大切なんです。うちの場合は味噌を食べてもらいたいから、いつも味噌とどうつなげていけるか考えています。あとは、遠くの同業者、近くの異業者から学ぶことですね。この人から学びたいと思ったら、積極的に相手の懐に飛びこんでいくこと。競争相手じゃないからそれこそ親切に教えてもらえます」
青木さんが販売した商品には、世の中で話題になったり、人気が出たりしたものを取り入れ、味噌と組み合わせてオリジナリティを出すという法則が見られました。そして、そのどれもが毎日食べられるような親しみやすいもので、信州の素朴さも感じさせてくれます。販売した商品数(サービスも含めて)は300種類以上にもなったそうです。その中には消えていくものも少なくありませんでした。
「ピザの宅配便をもじって『おむすび宅配便』をやってみたのですが、注文はとれても店の調理と配達のタイミングが重なることが多くて続きませんでした。また社員から『社長は早すぎるんですよ』といわれたのが、味噌味の『ラスク』や『ジビエ』。半年か1年後に出していたら売れたかもしれない商品も結構ありました」
通販のみならず直販も始め、加速がついた青木さん。本店の改装から約10年後の平成8年(1996年)、遂に善光寺の仲見世通りに、「すや亀 善光寺店」(以下善光寺店)を開店します。入社から足掛け約20年、コツコツと努力を続けた成果といえますね。
善光寺の仲見世通りとは、善光寺の仁王門から山門にかけての通りをいい、両側に約60店舗の飲食店や土産屋などが並び、門前町らしい賑わいをみせています。善光寺店は仁王門をくぐってすぐの仲見世通りの入口に位置しています。
「9坪の小さな店ですが、味噌と味噌加工品を直販し、テイクアウトの飲食にも力を入れて、『焼きむすび』『みそソフト』『甘酒』などを販売しました。その頃の仲見世通りには、飲食のテイクアウトの店はそれほどなかったですね。周辺の散策に食べ歩きできるよう、焼きむすびは海苔を巻いて食べやすくしました。実は私は甘いものが大好きで、当時、東京で人気だったアイスクリーム店に行ったとき、並んで食べたアイスクリームににんじんやさつま芋が入っているのを見て、これなら味噌でもいけると思ったのが、みそソフトの誕生のきっかけです。仲見世通りの一番端だから、果たしてここで商売になるのかと思いましたが、やはりそこは観光地ですね。出店の際の一番大切な要素、集客について悩む必要など全くありませんでした」
オープン後、「みそソフト」は、珍しい、面白いとマスコミにも取り上げられ、瞬く間に人気に。善光寺御開帳期間中のゴールデンウィークに、1日3000個を売るという記録も達成したそうです。圧倒的に認知度が向上すると、事業の中で相乗効果が見られました。
「たとえば『お店で買ったあの商品がおいしかったから送ってほしい』といった通販での注文が増えたんです。通販の顧客名簿は年々増加していきました。また、『善光寺店で売っている味噌商品を置かせてほしい』といった卸の取引も増えました。こちらから頭を下げてまわっていた卸取引中心の時代には考えられなかったことです」
通販、直販、飲食と事業を拡大してきたすや亀ですが、善光寺店にたどり着くまでには厳しい時代もあり、水面下ではあがいていたといいます。
「昭和60年(1985年)に本店を建て直した直後の2,3年は良かったんですが、その後の約10年が一番厳しかったですね。人(従業員)の問題、資金繰りの問題、商品の問題、後継者の問題と、いろいろな問題を抱えていましたから。その中でも一番大きかったのは人の問題です。通販、直販、飲食に力を入れたため多くの人手がいるんですね。私の入った頃は4、5人の会社でしたが、その後の10年間で総勢20人程になり、24人が入っては辞めていきましたから。高齢化の問題はなんとか若い人たちを採用するツテができたのですが、人の問題で一番良くなかったのは社長である私自身ですね。販売指向で社長が急ぎ足過ぎて、従業員教育の大切さもわからず、従業員が置き去りになっていました。原因はすべて自分にあると思い、苦しい時代に一番、経営や人事のことを勉強しました」
青木さんは従業員のモチベーションを上げるために、資格取得を奨励する制度や、味噌の品評会やおもてなし販売員コンクールといった、コンクール出場を目標にした社員教育や、社外の研修なども実施するよう制度をつくっていったそうです。
「従業員の方々には勉強をしていただきたいと思いますし、モチベーションを上げるための環境を会社が整えるべきだと思いました。ある販売スタッフが、販売士の資格を取得したことで、生き生きと仕事をするようになり、周りにも良い効果が波及したケースもありました。味噌造りについて本気で取り組んだのもその後すぐですね。通販、直販も何のためにやっているのかをつき詰めたら、味噌屋として味噌をもっと食べてもらいたいからなんですよ。それなら、自分自身がもっと味噌について学ばないといけないし、お客様に対しても自信をもって自社の味噌を届けたいという気持ちになったんですね」
苦しかった時代もあったと語る青木さん。
きれいにファイリングされた昔のカタログやダイレクトメールなどをめくりながら記憶をたどってくれた。
すや亀の味噌は食生活のシーンに合わせて、「普段使いの味噌」、「ちょっと贅沢な味噌」、「究極の味噌」とおおよそ3つに分けることができます。
「普段使いの味噌」の代表は「こがね」。国産の大豆と国産米の糀をたっぷりと使い、念入りに仕込んだ香り豊かな甘口味噌。信州味噌独特の山吹色で、やわらかくてとても使いやすく、すや亀でも一番人気です。
「ちょっと贅沢な味噌」の代表は「こしひかり」。国産こしひかり米と国産大豆の一等品、沖縄のシママース(塩)を使って、すや亀の木桶で長く熟成させた贅沢な味噌。艶々として茶色みの深い色で、ふわっと香るいい匂いは、すや亀の中でもダントツです。
「究極の味噌」はその名の通り、「究極をめざす味噌」。製造を開始したのは平成10年(1998年)、年に一度の予約のみで販売し、今年(2024年)で26代目。いったいどんな味噌なのでしょうか。
「一番の違いは、原料の米や大豆を選りすぐっている点。すべて無農薬栽培のものを使用しています。たとえば米は、最初はアイガモ農法を行う佐久市の農家さんにお願いしていたのですが、カモの管理が大変になり、現在は機械で除草を行っています。それでもシーズン中3回は除草を行なわなくてはならず、農家さんにとてもがんばっていただいています。大豆も同様で、最初は松本市の農家にお願いしていたのですが、除草にうんと手間がかかり、夏に社員が交代で手伝っていたこともありました。その後、北海道十勝の農家さんにたどり着き、そちらは畑が広大で、最新の大型除草機で株と株の間の雑草まできれいに刈り取っているんです。いまはそちらにお願いしています」
すや亀は平成9年(1997年)より「良い食品づくりの会」(美味・安心・安全な食品を次世代につなげるため生産者・販売者・消費者がともに活動を続ける団体)にも加盟して、食の安心・安全に向き合っています。その姿勢は、良い原料を求めて産地まで足を運ぶ「究極をめざす味噌」造りにも見てとれます。また、この味噌の製造をきっかけに、すべての木桶を新調、改修したそうです。
「平成25年(2013年)から約6年かけて、2本の新調と6本の修理を終えました。日本古来の木桶は上部が広くて下が狭く、竹タガで絞める構造になっており、製造・修理には専門の職人さんの腕が不可欠なんです。味噌を仕込む大型の桶の主流はステンレスや強化プラスチックになり、木桶を製造・修理できるのは、私の知る限り1社になりました」
ちなみに6本の木桶の修理代は、高級車が一台買えるほどのお値段だとか。それだけかける価値はあると青木さん。
「木桶は単なる容器ではなく、味噌にとって大切な発酵・熟成の主役です。蔵付き酵母が住みつき、すや亀の味噌の味や香りを醸し出し、ステンレス桶に出せない味わいが出るんです。修理したので今後も元気に100年働いてもらいたいです。ただし、毎年発酵が終わる頃には中身を空にして『天地返し』するなど、相変わらず手入れは必要ですけれど」
すや亀の蔵に入って誰もが驚くのは大きな木桶だけではありません。蔵の中央にあるのが、120年以上前に造られた石組みの井戸です。中から湧き出る裾花川(すそばながわ)水系の澄んだ地下水は枯れたことがないそうです。この天然水を使ってすや亀の味噌は製造されています。
「もちろん、原料、設備だけでなく、すや亀が大切にしているのは、熟練職人たちの技術です。自然との調和を計りながら仕込みをする、伝統的な寒仕込み(冬場に味噌を仕込む製法)には匠の技が欠かせませんから」
創業122年の歴史を感じさせる石造りの井戸や木桶はいまなお健全で、すや亀の味噌造りを支えています。その一方で、設備の更新や修繕も毎年のように行っており、新しい機材も少なくありません。古いものと新しいものが同居し調和する空間には、独特の空気が流れています。蔵は通常は見学できませんが、特別に見られる日があります。
「うちでは年2日だけ蔵を開放して、『みそ蔵開き』という定例イベントを行っているんです。みなさん蔵に入ると井戸や木桶などを見て驚かれていますね。イベントでは、商品の割引販売から、焼きおむすびの実演試食、味噌作り教室、餅つきもあり、みなさん思い思いに楽しまれています」
イベントの運営を担当されているのが、青木茂太(しげた)さん。青木さんの息子さんで近い将来の4代目、一昨年から経営企画担当として働き始めたそうです。
「後継者を外で修行させるのは良いことですが、うちは呼び戻すのが少し遅れてしまいました。あんまり大手の企業に入れないこと、これは後継者の引継ぎに関する教訓です(笑)。でも、4代目にバトンタッチしたらどんな会社になっていくのか、見届けるのが楽しみです」
そんな青木さんが社是(しゃぜ)として掲げている言葉が二つあります。中国、明の時代の古典から引用した言葉だとか。
「ひとつは、『真味是淡(しんみこれたん)』です。これは本物の味とはあっさりした飽きの来ない味という意味。弊社の扱っている味噌や味噌加工品には特別な物、珍しい物はないかもしれません。でも、飽きずに繰り返し食べられる物ばかり。味噌で数知れない加工品を造ってきましたが、味噌という食品はそれだけ汎用性が高いということです。これからもそんな味噌の魅力を伝えて行きたいですね。もう一つは、『不易流行(ふえきりゅうこう)』です。不易とは変わることのない永続性、流行とは時代とともに変化する流動性を表します。当社にとってやはり大切なのは、日本人の食を支えてきた発酵食、120年余の暖簾と味噌の文化を守りながら、その時代のライフスタイルや嗜好に合わせて味噌の可能性を探求し続けること。それが、私たちの使命だと思っています」
酢屋亀本店 代表取締役。慶応大学卒業後、東京の同業社で2年間勤務。昭和50年(1975年)に75年以上続く家業の味噌蔵を継承、3代目となる。味噌の製造卸業に加えて新規事業である通販、直販、飲食を始める。平成8年(1996年)に「すや亀 善光寺店」をオープン。「焼きむすび」「みそソフト」などのテイクアウト商品が、善光寺仲見世通りの名物となる。プライベートでは、大学時代にサイクリング部に所属。40年をかけて、サイクリングで日本縦断に挑戦し続け、60歳で達成する。75歳を過ぎたいま、一番の楽しみは映画鑑賞。