ゆたかな暮らしの歳時記

江戸で大流行したそばの歴史と
全国に広まった「年越しそば」

2024/12/26

12月31日 大晦日は、年越しそばを食べるのが、毎年の恒例という人も多いのではないでしょうか。今では、全国的な風習ですが、いつから始まったのか、地域によって違いなどはあるのか、「年越しそば」について食文化研究家の清絢(きよし あや)さんにお話を伺いました。

もりそばは、
なぜ“せいろ”に盛られているのか?

京都や大阪ではうどんが、東京ではそばが好まれるとよく言われますが、それは江戸時代から続く傾向だと、清さん。まずは、そばがどのように食されるようになったのか教えていただきました。

「そばは、古くは雑穀として、そばの実が粒のまま食べられていました。徳島県では『そば米』、山形県では『むきそば』という名前で、そうした食べ方が今でも残っています。また、そば粉を熱湯でこねて餅状にした『そばがき』を食べていた時代も長くありました。今のような麺としてそばを食べるようになったのは、安土桃山時代の終わりから江戸時代初期にあたる慶長年間(1596-1615)ごろではないかと考えられており、『そばきり』という名前で登場します」
しかし、当時のそばきりは、今のそばとは少し違っていました。そば粉のつなぎとして、小麦粉ではなく豆腐をすったものや、おも湯などを用いていました。ぶつぶつと切れやすいため、さっと茹でた後に蒸して調理していたといいます。

「現在、お蕎麦屋さんなどで、もりそばをお願いすると“せいろ”にのって出てくることがあると思いますが、それはそばきりを蒸していたころの名残だと言われています。その後、小麦を用いた、質のいいそばができるようになり、蒸さずに茹でるそばが定着していきました」

上:江戸時代のけんどん屋(江戸中期の麺類店の異称)
下:「もりそば」は、現代でもおなじみの、せいろと竹簾の上に盛って出されていた。
これは蒸しそばの名残りだと、清さん。「かけそば」は丼鉢に入れて提供されていた。
資料:『守貞謾稿』(出典:国立国会図書館デジタルコレクションより)

流行に敏感な江戸の人々の
心を捉えた“二八”のそば

江戸の町では、そばを食べる習慣が急速に広がっていきました。江戸時代中期には、うどんよりそばが主流になっていたようです。

「江戸には単身の男性が多く住んでいたため、そば、寿司、天ぷらといった手軽な外食が好まれました。加えて、提供されるまでの時間がうどんよりも短く、江戸っ子の気質に合っていたのかもしれません」

さらに、江戸の人々が大変流行に敏感だったことも影響したのではないかと清さん。

「歌舞伎や浮世絵で蕎麦屋が描かれるなど、そばは江戸時代のメディアに数多く登場しました。その結果、流行りの店として数を増やしていったようです。蕎麦屋は、屋台での営業も多かったようですが、最盛期には江戸の町に3700軒もあったといいますから、大変な人気だったのでしょう」

浮世絵に描かれた夜間にそばを売り歩く蕎麦屋。現在の虎ノ門のあたり。
資料:広重『名所江戸百景 虎の門外あふひ坂』,魚栄,安政4(出典:国立国会図書館デジタルコレクションより)

また、当時の絵には「二八」と書かれた看板が描かれています。現在、二八というと、二八そばといわれる、小麦粉2割・そば粉8割のそばを意味していると考えますが、どうやら当時はそうではなかったと清さん。

「二八とは、そばを16文で提供していることを、洒落をきかせて表現していたというのが有力な説です。つまり、2✕8=16であることから、16文と書く代わりに『二八』と掲げていたようです」

当時、お豆腐一丁12文、鰻丼は1杯100文、床屋・髪結床の利用料は30文ぐらいだったそうですから、そばは安価で庶民にとって食べやすい料理だったのでしょう。

「江戸初期は、蒸しそばが主流でしたが、二八と掲げられた屋台で食べるようになる頃には、丼鉢で食べるかけそばも人気に。かけそばには、貝柱を乗せたあられや天ぷら、しっぽく、なんばんなどの種類がありました」

また、照明用の油が安価になったことから、夜ふかし文化が生まれたのも江戸時代。

「『夜鷹(よたか)そば』と呼ばれる、夜だけ営業するお蕎麦屋さんも登場し、夜遊び帰りの人や夜の仕事の人々が利用して、大いに賑わっていたようです」

芝居小屋の前に店を出す二八蕎麦屋。
資料:『大江戸しばゐねんぢうぎやうじ 風聞きゝ』,長谷川寿美,
明治30年(出典:国立国会図書館デジタルコレクションより)

ちなみに、濃口醤油が普及し、庶民の口に入るようになったのは江戸中期になってからのこと。それまでのそばは、味噌を溶いて煮詰めたような汁を用いていたそうです。

「薬味なども、現代のわさびとネギに限らず、大根の汁や大根おろし、浅葱、からし、わさびなども加えており、味噌と相性の良い辛味の強いものが好まれたようです。醤油が普及し始めると、そばつゆ、そばだしにも醤油が用いられるようになりました。そばによく合う醤油ベースのそばつゆが登場したことで、一層人気が出たのかもしれません。さらに、砂糖が一般に手に入りやすくなると、つゆやだしの味も、甘みのある味に変化していったと考えられます」

運そば、晦日そば?
いろいろあった年越しそばの呼び名

そんな江戸の町、特に町人たちの間では、月の末日である晦日(みそか)に、そばを食べる風習がありました。
「毎月の末日であり、商人たちが今月も無事に商いができたことを祝って 晦日にそばを食べるようになり、その流れから、その年の最後の末日『大晦日』にもそばを食べる風習が定着しました。そうしたそばを、縁起を担いで『晦日そば』『運そば』などと呼んで食べたのが、現代の『年越しそば』の始まりだと考えられています」

こうした風習は、江戸時代中期にははじまっていたようで、江戸の町に広まり、大晦日には多くの人が蕎麦屋にそばを食べに行きました。

幕末ごろの資料を見ると、地方でも年越しそばを食べている記録がいくつも確認できますので、江戸の町から各地に飛び火して、徐々に、全国的に大晦日に年越しそばを食べる風習が広がっていったようです。

では、大晦日に食べるそばを『年越しそば』というようになったのは、いつぐらいのことなのでしょうか?

「正確な時期は定かではありませんが、明治時代の資料にも、『晦日そば』『運そば』『年越しそば』の名前が混在して登場しています。地域差もありますが、もともとは江戸の町で呼ばれた『晦日そば』に始まり、『運そば』、『年越しそば』とも呼ばれ、ひとつに定まらずいくつか存在したのでしょう。次第に『年越しそば』の名前が広まり、定着したと考えられています。
明治時代の資料『東京年中行事』には、『朝に注文したそばが、除夜の鐘がなるころにもまだ届かない』と記されていますので、当時も大晦日の蕎麦屋は大盛況だったようです」

新年を良い年にしたいと願う気持ちは、今も昔も変わることはありません。
「年越しそば」は、年納めの風物詩として私たちの暮らしにすっかり定着しました。今年も一年の締めくくりに、これから迎える新年の幸せを祈って年越しそばを楽しみ、よいお年をお迎えください。

食文化研究家

清 絢 (きよし あや)さん

食文化研究家

清 絢 (きよし あや)さん

大阪府生まれ。専門は食文化史、行事食、郷土食。主な著書に『ふるさとの食べもの』(共著、思文閣出版)、『食の地図』(帝国書院)など。近著に『日本を味わう 366日の旬のもの図鑑』(淡交社)がある。一般社団法人和食文化国民会議 幹事。農林水産省、文化庁、観光庁などの食文化関連事業の委員を務める。